幽霊なんか怖くない
世の中には科学では解明出来ない事がまだまだたくさんある、と静雄は思う。
セルティの存在もそのひとつだ。都市伝説と謳われる首なしライダーは現代社会では事象のひとつとして存在するが、デュラハンと呼ばれる彼女は本来アイルランドの妖精らしい。が、静雄にとっては気の許せる友人という認識でなんの不都合もない。
首がないのに動いている、とか、影を使って色々出来る、とか。説明の出来ない現実は、築いた友情の前には障害たり得ない。
科学を否定するつもりもないが、日頃こんな大都市の雑踏に身を置いているからこそ、不可思議な存在だってそこにいていいんじゃないかと、そう思う。
―――思うのだが。
その女は、その眉間からどくどくと血を流していた。いや、額に開いた大穴からと言うべきか。
腰に届く長い髪を伝って滴り落ちるそれが、地面に染みを作っていく。感情の見えないその顔がこちらを向いても、静雄はじっとそれを眺め続けていた。女は不自然にゆらゆらと揺れ、瞳孔の開いた目が静雄を凝視している。
生きているようには見えない。実は瀕死の重傷でなんとか助けを求めて立ち上がったところ、…にも見えない。明らかな異常。不愉快な異質。
静雄を見つめたまま動かない女が、不意に口角を上げた。笑みの形になったそれがそのままさらに角度を深めて、―――メリメリと音を立てて裂けていく。
それを見た瞬間、静雄は自分の口から低い悲鳴が漏れるのをどこか遠くで認知していた。
クラス委員なんて体のいい小間使いだ。
すっかり日の落ちた空に目をやって、帝人はこっそり溜め息を吐いた。
今日が提出締め切りのプリントを集めて持ってくるよう言われた時点で嫌な予感はしていたのだが、案の定、集めたプリントの整理を手伝わされついでにコピーしてホッチキスで止めてと、最後まで付き合わされてしまった。上手く逃げれなかった自分も不器用なのだろう。
日が落ちたとは言え、体育館からはまだ部活に勤しむ学生たちの声が響いている。帰宅部の帝人にすればいつもより遅い、というだけだ。
たまにはこんな日もありかもね、とアパートまでの道をのんびり歩く。夕食時の街は帰宅するサラリーマンやOLで溢れ返っていて、どこからこんなに人が湧いてくるんだろうと、池袋に住んで久しい今でも首を傾げたくなる時がある。これが夜になるともっと増えるのだから不思議だ。
大通りを離れ一本横の筋に逸れると、途端に辺りは静かになった。微かに聞こえてくるテレビの音や人の声が、実家の田舎を連想させる。
先にあるT字路を曲がると、人影も絶え、街灯すら乏しくなっていく。そのT字路の向こうから、低く吠えるような男の悲鳴が聞こえてきた。
(え…?)
繁華街と違い、この辺りは静かな住宅街があるばかりだ。酔っ払いが騒ぐ時間でもなし、一瞬テレビの声を聞き違えたのかと帝人は耳を澄ませた。
が、続く声は一向に訪れない。
(どうしよう…近づかない方がいいよね? でも家に帰る道だし、喧嘩とかじゃなくて本当に何か困ってるんなら無視するのも悪いよね…)
帝人だって、もちろん自分の身が可愛い。好んで危険に近づきたくはないが、客観的に見れば彼はお人好しだ。怪我人がいるなら放っておくのもどうかと考え、逡巡しつつも結局帝人は様子を見に行く事にした。
どうせ帰り道なんだし、見てみてヤバそうだったらどっかで時間をつぶそう。
そろそろと路地を進むと、曲がり角に差し掛かったところで帝人は何かに跳ねられた。いや、ぶつかって来た何かごとそのまま壁にぶち当たった、と言うべきか。
衝撃の割に痛みが無かったのは、その『何か』が自分を抱え込んでいたからだ。そうしてそれは、どうやら人の形をしている。
「ちょ、ギブ、ギブ! 折れる折れる折れる…!」
万力で締め上げられる感覚に思わず悲鳴を上げると、ぎゅうぎゅうと締め付けていた力が少し弛んで、代わりに小刻みな震えが伝わって来た。
(これって、まさか…)
顔のすぐ横に相手の頭があって、なのに足を動かせば、靴の先に僅かにアスファルトの感触がある。つまり今自分は完全に浮いている状態で、相手は自分より2~30センチは高いはずで。なのに落ちそうな感覚が全くない。
よほどがっちり抱え込まれているのだろうが、標準より軽いとはいえ帝人も男子高校生だ。50キロを軽々抱えてビクともしない人なんて――、いや、でも彼がこんな所にいるだろうか?
「あの、……静雄、さん?」
躊躇いがちに声をかけるが、返答はない。小刻みな振動は何かに怯えているようにも見えるが、あいにく宥めようにも身体が全く動かせない。それでも視界を掠める髪は金色で、眼下に見える布地は黒と白。コスプレ趣味のお兄さん…の可能性が無いでもないが、まあ普通に考えればコレはアレだろう。
というか、あの平和島静雄が怯えるモノって何!!?
僅かに自由のきく首を巡らせてみるが、変わったものは何もない。道沿いに続くコンクリートの壁、数メートル先に電柱があって、その上には街灯が灯っていて。特に何かがあるようにも―――いや、薄っすらと透けて見える、人のような『モノ』。ひょっとしてあれだろうか。
目を凝らしていると、少しずつ輪郭がはっきりしてきたようにも見えた。髪の長い、項垂れている若い女性。淡いピンクのワンピースを着て、けれどもその半分は赤く染まっている。
俯いていた顔がゆっくりと上がって、帝人はその額がぱっくり割れているのを見てしまった。死んでるよね、これ。いや、実は瀕死重傷でなんとか助けを求めて立ち上がったところ、…とか???
「ひょっとしてアレですか? ピンクのワンピース…」
うあ、とも、ぐお、ともつかない声を上げて、しがみ付く腕が強くなる。同時に震えも強くなって、帝人はひたすら続く微妙な振動が段々気持ち悪くなってきた。
正直面倒くさくもある。怖いなら逃げればいいのに、なぜ彼は楯にもならない自分を抱えて震えているのだろう。
「あ…」
髪から滴る赤いものが、地面に落ちて黒っぽい色へと変わる。染みのようなそれが、徐々にこちらに伸びてきてるようにも見えるのは気の所為だろうか。
「あの、…取り敢えず逃げませんか? 髪というか血みたいな染みなんですけど、なんだかこっちに伸びてきてるような、」
気がする、と言い終える間もなく唐突に浮遊感が身体を襲った。女が見えなくなると同時に、目まぐるしい勢いで辺りの景色が変わっていく。というか、ブレている。
「ちょ、ま、…待って…」
帝人を抱えたまま、静雄が猛スピードで池袋の街を疾走する。羞恥よりも三半器官の限界に襲われていた帝人は、だから池袋人から送られる好奇と忌避の視線に気付く事はなかった。