路地裏の宇宙少年
眩しい光が一斉に自分に向けられて、思わず目を細める。いや、この程度で怯んではいられない。徐々に指先にまで急速に感覚が研ぎ澄まされていくのがわかる。少しだけ震えた足が、真新しい芝を踏みしめた。張り替えたばかりの人工芝は練習の頃よりも弾力性を増していた。同じように心は弾んだけれど、頭のどこかは冷静に覚めていた。
感触は悪くない。
芝すら光を受けて輝いているように見える。すべてが光って見えて、スタンドにいる観客の声は聞こえるのに、その顔一つ一つはよく見えない。知っている顔も、知らない顔もわからない。それでも鼓舞するように叫ばれる自分の名前。今まで一度も、自分の名前を好きだと思った事はないけれど。その声はスタジアムの真ん中から見える果てしなく広がす空に突き抜けるようだった。
今日は誰よりも早く走れる気がする。
誰よりも高く飛べる気がする。
姿の見えない何かが、しゃんと伸びた背中を押してくれていた。仲間ではなく、自分の中から湧き上がる何かが歓声に応えるようにその足を踏み出させた。
大丈夫だから、さあ行ってこい。
フィールドを照らすスタジアムの光がより強くなった気がした。
場内のアナウンスが自分の名前を呼ぶと歓声は一層強くなって、電流のように伝わってくる。最高の気分だ。今なら鳥にだってなれる。空を見上げて手を伸ばすと照明が真っすぐに自分を照らして、視界は白く塗り潰された。
その手は何も掴みはしなかった。
夢はそこで途切れた。
***
慌ただしく走るカノンの足音すら紛れてしまうほど、校内はいつもより騒がしかった。階段を数段飛ばして駆け降りると、いくつか見知った顔が呆れたような笑顔を浮かべてその背を見送った。
「また先生に怒られてもしらねーぞ」
笑いながら忠告する友人の前も走り抜ける。また、と言うのがつい昨日のことだと脳裏に過ったが、すぐに聞かなかったことにする。きっと見つかれば昨日より少し長い説教が待っているだろう。残念ながらおとなしくしているのは性分ではない。そんな時間があるならさっさとグラウンドで練習したいところだ。
「カノン、おまえまた追試だろうが!」
先日行われた定期考査の結果が張り出された廊下は少しだけ混みあっていて、自動的に速度を落とす事になる。自分がその中にいないには今に始まった事ではない。残念ながら机の前に座っているのは苦手だ。その時間すら勿体無い気がして、それならばと休養に充ててしまうのは悪い癖だと思いつつもあまり改善の必要性は感じていなかった。
友人に苦笑いを返して人混みを走り抜けるとようやく窓の外にグラウンドが見えて、肩にかけた鞄をかけなおす。中に押し込んだ靴が金属的な音を立てた。どうやらまだグラウンドには誰も到着していないらしい。サッカー部専用のグラウンドは他のものより広く、それがカノンにとっては誇らしい事だった。自分の両親も同じくこの学校にいたらしいが、カノンのようにサッカー一筋だったわけではないらしい。その頃のサッカー部は今ほど有名でもなく、また競技自体が変遷の時期にあって一時的にその人気を落としていた。それでもこの学校が設備を維持できたのはそれまでの実績が他校より群を抜いていたからだと、結局サッカー部には入らなかった父親が言った。どうやら以前はサッカーに関して強豪校であったらしい。そのころのことをカノンは知らない。ただ父親の家系は必ず皆この学校に通うのだと決まっていた。それは子供の頃からサッカーをやっていたカノンにとっては少々当たり前のようにも思えていて、特別に何か思い入れがあったからではない。顔も知らぬ先祖には、申し訳ないがこの環境の事だけは感謝しよう。
授業を終えて校門からは続々と生徒が帰り始めていた。きっと部室にはそろそろ皆が集まり始める頃だろう。カノンのように先にグラウンドに集まる人間は珍しい。
「あれ?」
自分が最初だと思っていたのに、とカノンはグラウンド腋に自分の鞄を置きながらその姿を見た。センターサークルの中央にまっすぐたつ人物に見覚えはなかった。靴を履き替えるとすぐに駆け寄る。
「なあ、入部希望?」
声を掛けると彼はカノンの方を振り返った。ゴーグルの向こうの瞳が僅かに見えたが、すぐに光に反射して見えなくなる。制服の校章は自分と同じ学年である事を示していた。学年ごとに違う襟章という古い習慣がこういうときに役に立つ。彼は黙ってカノンを見たが、何か返事をするような様子はなかった。
「入部希望なら先に部室に」
カノンが微笑みかけるのも構わずに、彼はグラウンドを去ろうとする。変なやつだ、と思ったが季節外れの入部希望者は今に始まった事ではない。案内しないとまた先輩たちに怒られる事になりそうだとカノンは彼に追いついた。
「なあ」
「触るな!」
肩に置いた手を払い除けられて、カノンは思わず足を止めた。彼は構わず歩き続けていて、その背を見送る。どうやら入部希望ではないらしい、となんとなくわかったカノンはそれ以上追うのを止めた。彼は一度も振り返ることなくグラウンドを出て、帰宅する生徒の中に混ざろうとした。だが周囲が彼に気付いたのか、少しだけ彼の周りに空間ができる。
「なんだったんだ…?」
彼の姿はすぐに見えなくなり、カノンはぼんやりと校門の方を見ていたが、すぐに別の方向から部員たちが来たことに気づいて振り返る。彼らはカノンの姿を見つけるなり、自分を指差して部室に現れなかった事を指摘した。
「だってさあ…」
「サッカー馬鹿もほどほどにしろよ、カノン」
すでにユニフォームに着替えていた先輩から言われてカノンは肩を竦めると誤魔化すように笑った。誰でもグラウンドに一番乗りをしたい気持ちを持つものではないか、と言ったところで呆れた顔をされるのはわかっている。
「いいから、さっさと着替えて来い」
「はあい」
カノンは駆け足でグランド脇に置いた自分の鞄を掴むと部室まで走った。そういえば、部長に先ほど会った彼の話をするのを忘れていた。後で話しておいたほうがいいのだろうか、と思ったがとりあえず準備が先だ。
サッカー部の部室は他の部と違って少し離れた場所にあった。人工的に整備された森の入り口に近い場所にひっそりと建てられている。もう何年も改築されないまま残された小屋に掛けられた『サッカー部』と書かれた木製の縦看板がその古さを物語っていた。校舎の改築も、グラウンドの移設もされたのに、この場所だけは前世紀から時間もそのまま止まってしまったかのように残されている。それが何故かを聞いた事はなかった。扉を開けるたびに部室の鉄骨が軋んで、カノンは静かに扉を閉める。補強工事はされているものの、他の建物に比べると心許ない。けれども古い意外にはたいした問題もなく、カノンは自分のロッカーを開くと脱ぎ捨てた制服を放り込んだ。昔からデザインが変わらない制服は決して悪くはないが、今年から新しくなったユニフォームの方が断然着心地が良い。鞄から取り出した練習用の白いブーツを床に置いて、カノンは両手を硬く握った。
「よし!」
感触は悪くない。
芝すら光を受けて輝いているように見える。すべてが光って見えて、スタンドにいる観客の声は聞こえるのに、その顔一つ一つはよく見えない。知っている顔も、知らない顔もわからない。それでも鼓舞するように叫ばれる自分の名前。今まで一度も、自分の名前を好きだと思った事はないけれど。その声はスタジアムの真ん中から見える果てしなく広がす空に突き抜けるようだった。
今日は誰よりも早く走れる気がする。
誰よりも高く飛べる気がする。
姿の見えない何かが、しゃんと伸びた背中を押してくれていた。仲間ではなく、自分の中から湧き上がる何かが歓声に応えるようにその足を踏み出させた。
大丈夫だから、さあ行ってこい。
フィールドを照らすスタジアムの光がより強くなった気がした。
場内のアナウンスが自分の名前を呼ぶと歓声は一層強くなって、電流のように伝わってくる。最高の気分だ。今なら鳥にだってなれる。空を見上げて手を伸ばすと照明が真っすぐに自分を照らして、視界は白く塗り潰された。
その手は何も掴みはしなかった。
夢はそこで途切れた。
***
慌ただしく走るカノンの足音すら紛れてしまうほど、校内はいつもより騒がしかった。階段を数段飛ばして駆け降りると、いくつか見知った顔が呆れたような笑顔を浮かべてその背を見送った。
「また先生に怒られてもしらねーぞ」
笑いながら忠告する友人の前も走り抜ける。また、と言うのがつい昨日のことだと脳裏に過ったが、すぐに聞かなかったことにする。きっと見つかれば昨日より少し長い説教が待っているだろう。残念ながらおとなしくしているのは性分ではない。そんな時間があるならさっさとグラウンドで練習したいところだ。
「カノン、おまえまた追試だろうが!」
先日行われた定期考査の結果が張り出された廊下は少しだけ混みあっていて、自動的に速度を落とす事になる。自分がその中にいないには今に始まった事ではない。残念ながら机の前に座っているのは苦手だ。その時間すら勿体無い気がして、それならばと休養に充ててしまうのは悪い癖だと思いつつもあまり改善の必要性は感じていなかった。
友人に苦笑いを返して人混みを走り抜けるとようやく窓の外にグラウンドが見えて、肩にかけた鞄をかけなおす。中に押し込んだ靴が金属的な音を立てた。どうやらまだグラウンドには誰も到着していないらしい。サッカー部専用のグラウンドは他のものより広く、それがカノンにとっては誇らしい事だった。自分の両親も同じくこの学校にいたらしいが、カノンのようにサッカー一筋だったわけではないらしい。その頃のサッカー部は今ほど有名でもなく、また競技自体が変遷の時期にあって一時的にその人気を落としていた。それでもこの学校が設備を維持できたのはそれまでの実績が他校より群を抜いていたからだと、結局サッカー部には入らなかった父親が言った。どうやら以前はサッカーに関して強豪校であったらしい。そのころのことをカノンは知らない。ただ父親の家系は必ず皆この学校に通うのだと決まっていた。それは子供の頃からサッカーをやっていたカノンにとっては少々当たり前のようにも思えていて、特別に何か思い入れがあったからではない。顔も知らぬ先祖には、申し訳ないがこの環境の事だけは感謝しよう。
授業を終えて校門からは続々と生徒が帰り始めていた。きっと部室にはそろそろ皆が集まり始める頃だろう。カノンのように先にグラウンドに集まる人間は珍しい。
「あれ?」
自分が最初だと思っていたのに、とカノンはグラウンド腋に自分の鞄を置きながらその姿を見た。センターサークルの中央にまっすぐたつ人物に見覚えはなかった。靴を履き替えるとすぐに駆け寄る。
「なあ、入部希望?」
声を掛けると彼はカノンの方を振り返った。ゴーグルの向こうの瞳が僅かに見えたが、すぐに光に反射して見えなくなる。制服の校章は自分と同じ学年である事を示していた。学年ごとに違う襟章という古い習慣がこういうときに役に立つ。彼は黙ってカノンを見たが、何か返事をするような様子はなかった。
「入部希望なら先に部室に」
カノンが微笑みかけるのも構わずに、彼はグラウンドを去ろうとする。変なやつだ、と思ったが季節外れの入部希望者は今に始まった事ではない。案内しないとまた先輩たちに怒られる事になりそうだとカノンは彼に追いついた。
「なあ」
「触るな!」
肩に置いた手を払い除けられて、カノンは思わず足を止めた。彼は構わず歩き続けていて、その背を見送る。どうやら入部希望ではないらしい、となんとなくわかったカノンはそれ以上追うのを止めた。彼は一度も振り返ることなくグラウンドを出て、帰宅する生徒の中に混ざろうとした。だが周囲が彼に気付いたのか、少しだけ彼の周りに空間ができる。
「なんだったんだ…?」
彼の姿はすぐに見えなくなり、カノンはぼんやりと校門の方を見ていたが、すぐに別の方向から部員たちが来たことに気づいて振り返る。彼らはカノンの姿を見つけるなり、自分を指差して部室に現れなかった事を指摘した。
「だってさあ…」
「サッカー馬鹿もほどほどにしろよ、カノン」
すでにユニフォームに着替えていた先輩から言われてカノンは肩を竦めると誤魔化すように笑った。誰でもグラウンドに一番乗りをしたい気持ちを持つものではないか、と言ったところで呆れた顔をされるのはわかっている。
「いいから、さっさと着替えて来い」
「はあい」
カノンは駆け足でグランド脇に置いた自分の鞄を掴むと部室まで走った。そういえば、部長に先ほど会った彼の話をするのを忘れていた。後で話しておいたほうがいいのだろうか、と思ったがとりあえず準備が先だ。
サッカー部の部室は他の部と違って少し離れた場所にあった。人工的に整備された森の入り口に近い場所にひっそりと建てられている。もう何年も改築されないまま残された小屋に掛けられた『サッカー部』と書かれた木製の縦看板がその古さを物語っていた。校舎の改築も、グラウンドの移設もされたのに、この場所だけは前世紀から時間もそのまま止まってしまったかのように残されている。それが何故かを聞いた事はなかった。扉を開けるたびに部室の鉄骨が軋んで、カノンは静かに扉を閉める。補強工事はされているものの、他の建物に比べると心許ない。けれども古い意外にはたいした問題もなく、カノンは自分のロッカーを開くと脱ぎ捨てた制服を放り込んだ。昔からデザインが変わらない制服は決して悪くはないが、今年から新しくなったユニフォームの方が断然着心地が良い。鞄から取り出した練習用の白いブーツを床に置いて、カノンは両手を硬く握った。
「よし!」