夢の旅人
屋上の扉を押し開けると雨上がりの日差しが降り注いだ。普通なら眩しさに目を細めるところだが、ゴーグルのレンズ一枚を通すだけでそれは虹彩には届かない。代々使われていたゴーグルを元に作られたそれは、自分の時だけまったく違う意味で作られた。そのことに絶望したのは自分よりも周囲だったかもしれない。確かに二度と大舞台には立てないかもしれない。けれど少なくともサッカーはできたはずだった。
(まさか、世界大会だけがサッカーと言うとは思わなかった)
代表に選ばれなければ意味がないのだといわれた。自分の意志とは関係ないところで動かされていたと知るには若すぎたかもしれない。結果的にサッカーを捨てることになってしまったのは正解だったのか、わからなくなってしまった。
相変わらずサッカーグラウンドではいくつかの人影が不規則に動いていて、すぐにサッカー部だとわかる。入学する前からチームの強さには不釣り合いな設備だと言われていたが、それに同意せざるをえなかった。残念ながら入学してから一度も勝ったという噂を聞かない。今も、紅白戦をする人数も足りずにフィールドの半分ほどだけをつかって練習していた。もったいないから他の部に貸し出せばいいという意見は今に出たことではなかったが、頑としてそれは理事長が譲らなかった。それだけ過去のサッカー部がすごかったのだと妙齢の理事長は会議で語っていたのだという。思い出にしがみついて現実を見ようとしないのはいかがなものかと思ったが、この理事長がいなければ自身もまた救われなかったのだと思うと否定もできなかった。
『帝国に行くのを躊躇うなら、うちにいらっしゃい』
彼女はサッカーを捨てたばかりの自分にそう声を掛けた。本来鬼道の人間は一族が経営している帝国学園に通うのが通例だった。それだけで未来が約束されているような世界だったことは、その内側にいたときはまったく気付きもしなかった。いや、気付こうとしなかっただけかもしれない。見放されて初めてそれが自分の実力ではないものまで含まれていたのだと知らされる。思わず自嘲的な笑いがこみ上げた。そんな世界なら捨てて正解だったのかもしれない。
グラウンドの一角では相変わらずサッカー部があまりうまくないパス回しを練習しているところで、そのうちの一つの影がいきなり輪から飛び出したかと思うと急に自分の方を見た。いや、実際距離があるから自分の存在は気付かれないはずだ。だからおそらく彼が自分の方を見たのも偶然だったはずなのに、目があった気がした。隠れるように屋上の柵から体を離して数歩下がる。それだけで彼の姿は見えなくなった。
「単なる偶然、か」
赤いバンダナがやけに鮮明に目に焼きついた。
***
気付けば必ず屋上にいるようになった。授業が終わったあとのグラウンドは賑やかで、その喧騒は屋上まで届いてくる。けれども対照的に屋上を訪れる人間は自分以外見当たらなかった。昨夜から空を覆っている雲は昼過ぎにその厚みを増して低く唸り始めていた。この様子ではきっとサッカー部は練習を行わないだろう。そういう部なのだと見ているだけでわかった。帝国にいた頃とは違いすぎて、近づく気にもならなかった。本気でやらないのならば辞めてしまえばいいのに。
(何故、俺だけが)
思わず柵を掴む手に力が篭った。自分が捨てたものを、あんなに簡単に扱える彼らが妬ましくなる。なんのために自分がやってきたのかわからなくなる。
『あの家の中ではわからなかったことに気付くわ』
学校を案内してくれたときに、理事長はそういった。それが何を指しているのかいまだにその真意はわからないが、この数ヶ月間で何かを掴みかけている気はする。屋上には自分のすべての感情が渦巻いている気がした。手を伸ばしても届かない、けれども自分とは関係なく時間は進んでいく。そのたびに心をかき乱された。自分が必要とされない世界は初めだった。退屈そうに柵に頬杖を着いてグラウンドを見下ろすと、背後で屋上の扉が開く音を立てた。
「鬼道」
名前を呼ばれたのは久しぶりな気がした。なんとなくここに来るような気がしていたのは何故なのか自分にもわからない。けれど他の人間が自分を呼ぶよりも、少しマシな気がした。昨夜彼を突き放したつもりだったが、同時にどこかで期待してしまっていた。彼ならば、自分を必要としてくれるだろうか。
「お前のクラスのやつにここだって言われたんだけど」
どうやら同じクラスの人間には自分の行動は筒抜けだったらしい。むしろ自分の行動を気に掛けるような余裕があったのかと少々驚く。学年で一番成績がいいAクラスは、定期考査で少しでも成績を落とすと他のクラスへと強制的に移動させられる。そのせいで常に緊張感が走っていて、自分には居心地の悪い場所だった。抑え付けられるようなプレッシャーに押し潰されてたまに姿を消す生徒もいるくらいだが、それは自分の周りでは当たり前のことだった。むしろそれだけでしか、自分の存在価値を見出せない。サッカーを失った彼もまた同じ存在だった。自然と視線はグラウンドから空へと移る。先ほどまでよりも更に低く立ち込めた雲は、まるで自分の思考回路を読んだかのようだ。
「なあ、なんでサッカー嫌いなのか、聞いてもいいか?」
咄嗟に、嫌いではないと答えそうになって詰まる。過去の自分ならそんなこと聞かれもしないほどサッカーが好きだと表現していたに違いない。そのときから自分は変わってしまったのだと思い知らされる。隣に立った彼は答えを待つように自分を見ていた。
「…なんでわざわざ俺に絡むんだ」
その途端に彼が笑顔に変わって、思わず眉間に皺を寄せた。何がそんなに嬉しいのだろうか。急に彼に対して腹立たしくなったが、それは同時に彼が自分いないものを持っているからだと気付く。落ち着けるようにもう一度空を仰ぎ見た。一度は自分が手に入れたはずのものを、彼は当然のように持っている。
「昔は、多分お前くらいサッカーが好きだったかもな」
むしろそれがすべてだった。そうでなければ鬼道の人間とは認められないと生まれる前から刷り込まれていたのかもしれない。だがそれを抜いても好きだという自信はあった。彼の目がその理由を尋ねているのがわかる。きっと彼は理由を知るまで自分をサッカーに戻そうとするのを諦めないだろう。それは自分にとってはあまりにも残酷だった。
「これでわかっただろう、俺にはもうサッカーはできない」
彼の驚いた目が自分を見つめていた。目を逸らしたくてもそうできずに、彼と見詰め合うことになる。同情している目だとすぐにわかる。サッカーを失ったものに対する哀れみの眼。そしてそのあとは大抵、自分が失ったら耐えられないという目に変わるに決まっていた。それを考えただけで、今まで彼に対して蓄積されたものが爆発しそうになる。
「お前にわかるか、あの絶望感が」
勢いに任せたて彼の肩を掴んだ。今までならどうにか冷静になれただろう。けれども一度堰を切ってしまうと感情を抑えられなくなる。彼の目に動揺が滲んだのに気付いた。
「自分がどれだけ焦がれても、もう二度とできないつらさが」
(まさか、世界大会だけがサッカーと言うとは思わなかった)
代表に選ばれなければ意味がないのだといわれた。自分の意志とは関係ないところで動かされていたと知るには若すぎたかもしれない。結果的にサッカーを捨てることになってしまったのは正解だったのか、わからなくなってしまった。
相変わらずサッカーグラウンドではいくつかの人影が不規則に動いていて、すぐにサッカー部だとわかる。入学する前からチームの強さには不釣り合いな設備だと言われていたが、それに同意せざるをえなかった。残念ながら入学してから一度も勝ったという噂を聞かない。今も、紅白戦をする人数も足りずにフィールドの半分ほどだけをつかって練習していた。もったいないから他の部に貸し出せばいいという意見は今に出たことではなかったが、頑としてそれは理事長が譲らなかった。それだけ過去のサッカー部がすごかったのだと妙齢の理事長は会議で語っていたのだという。思い出にしがみついて現実を見ようとしないのはいかがなものかと思ったが、この理事長がいなければ自身もまた救われなかったのだと思うと否定もできなかった。
『帝国に行くのを躊躇うなら、うちにいらっしゃい』
彼女はサッカーを捨てたばかりの自分にそう声を掛けた。本来鬼道の人間は一族が経営している帝国学園に通うのが通例だった。それだけで未来が約束されているような世界だったことは、その内側にいたときはまったく気付きもしなかった。いや、気付こうとしなかっただけかもしれない。見放されて初めてそれが自分の実力ではないものまで含まれていたのだと知らされる。思わず自嘲的な笑いがこみ上げた。そんな世界なら捨てて正解だったのかもしれない。
グラウンドの一角では相変わらずサッカー部があまりうまくないパス回しを練習しているところで、そのうちの一つの影がいきなり輪から飛び出したかと思うと急に自分の方を見た。いや、実際距離があるから自分の存在は気付かれないはずだ。だからおそらく彼が自分の方を見たのも偶然だったはずなのに、目があった気がした。隠れるように屋上の柵から体を離して数歩下がる。それだけで彼の姿は見えなくなった。
「単なる偶然、か」
赤いバンダナがやけに鮮明に目に焼きついた。
***
気付けば必ず屋上にいるようになった。授業が終わったあとのグラウンドは賑やかで、その喧騒は屋上まで届いてくる。けれども対照的に屋上を訪れる人間は自分以外見当たらなかった。昨夜から空を覆っている雲は昼過ぎにその厚みを増して低く唸り始めていた。この様子ではきっとサッカー部は練習を行わないだろう。そういう部なのだと見ているだけでわかった。帝国にいた頃とは違いすぎて、近づく気にもならなかった。本気でやらないのならば辞めてしまえばいいのに。
(何故、俺だけが)
思わず柵を掴む手に力が篭った。自分が捨てたものを、あんなに簡単に扱える彼らが妬ましくなる。なんのために自分がやってきたのかわからなくなる。
『あの家の中ではわからなかったことに気付くわ』
学校を案内してくれたときに、理事長はそういった。それが何を指しているのかいまだにその真意はわからないが、この数ヶ月間で何かを掴みかけている気はする。屋上には自分のすべての感情が渦巻いている気がした。手を伸ばしても届かない、けれども自分とは関係なく時間は進んでいく。そのたびに心をかき乱された。自分が必要とされない世界は初めだった。退屈そうに柵に頬杖を着いてグラウンドを見下ろすと、背後で屋上の扉が開く音を立てた。
「鬼道」
名前を呼ばれたのは久しぶりな気がした。なんとなくここに来るような気がしていたのは何故なのか自分にもわからない。けれど他の人間が自分を呼ぶよりも、少しマシな気がした。昨夜彼を突き放したつもりだったが、同時にどこかで期待してしまっていた。彼ならば、自分を必要としてくれるだろうか。
「お前のクラスのやつにここだって言われたんだけど」
どうやら同じクラスの人間には自分の行動は筒抜けだったらしい。むしろ自分の行動を気に掛けるような余裕があったのかと少々驚く。学年で一番成績がいいAクラスは、定期考査で少しでも成績を落とすと他のクラスへと強制的に移動させられる。そのせいで常に緊張感が走っていて、自分には居心地の悪い場所だった。抑え付けられるようなプレッシャーに押し潰されてたまに姿を消す生徒もいるくらいだが、それは自分の周りでは当たり前のことだった。むしろそれだけでしか、自分の存在価値を見出せない。サッカーを失った彼もまた同じ存在だった。自然と視線はグラウンドから空へと移る。先ほどまでよりも更に低く立ち込めた雲は、まるで自分の思考回路を読んだかのようだ。
「なあ、なんでサッカー嫌いなのか、聞いてもいいか?」
咄嗟に、嫌いではないと答えそうになって詰まる。過去の自分ならそんなこと聞かれもしないほどサッカーが好きだと表現していたに違いない。そのときから自分は変わってしまったのだと思い知らされる。隣に立った彼は答えを待つように自分を見ていた。
「…なんでわざわざ俺に絡むんだ」
その途端に彼が笑顔に変わって、思わず眉間に皺を寄せた。何がそんなに嬉しいのだろうか。急に彼に対して腹立たしくなったが、それは同時に彼が自分いないものを持っているからだと気付く。落ち着けるようにもう一度空を仰ぎ見た。一度は自分が手に入れたはずのものを、彼は当然のように持っている。
「昔は、多分お前くらいサッカーが好きだったかもな」
むしろそれがすべてだった。そうでなければ鬼道の人間とは認められないと生まれる前から刷り込まれていたのかもしれない。だがそれを抜いても好きだという自信はあった。彼の目がその理由を尋ねているのがわかる。きっと彼は理由を知るまで自分をサッカーに戻そうとするのを諦めないだろう。それは自分にとってはあまりにも残酷だった。
「これでわかっただろう、俺にはもうサッカーはできない」
彼の驚いた目が自分を見つめていた。目を逸らしたくてもそうできずに、彼と見詰め合うことになる。同情している目だとすぐにわかる。サッカーを失ったものに対する哀れみの眼。そしてそのあとは大抵、自分が失ったら耐えられないという目に変わるに決まっていた。それを考えただけで、今まで彼に対して蓄積されたものが爆発しそうになる。
「お前にわかるか、あの絶望感が」
勢いに任せたて彼の肩を掴んだ。今までならどうにか冷静になれただろう。けれども一度堰を切ってしまうと感情を抑えられなくなる。彼の目に動揺が滲んだのに気付いた。
「自分がどれだけ焦がれても、もう二度とできないつらさが」