夢の旅人
自分がそんなに弱いものだと思わなかった。周囲に対しても、自分に対しても、強くいなければいけなかった。なのにサッカーというものを失っただけで自分の存在意義を失ってしまう。それなら最初から出会わなければよかったのに。
「サッカーなんて、なくなればいいんだ」
瞬時に彼の手が自分に迫るのが見えた。けれども避けようとも思わなかった。衝撃で手に持っていたゴーグルが落ちて音を立てた。すぐに左頬が熱くなって、ゆっくりと自分の手で触れると、ようやくそれが痛みなのだと分かる。明らかに彼の目は怒っていた。その意味が分からないほど愚かになったつもりはない。自分は彼に対して言ってはいけない事を言ってしまった。
「俺はそれくらいでサッカー嫌いになったりしない!」
「お前に何がわかる!」
何も知らないくせに。何も失ってなどいないくせに。きっと彼も自分と同じ状態になれば同じことを言うのだろう。叫ぶ間に、顔に水滴が落ちたが止められなかった。彼の襟元を掴んで叫ぶと、水滴は口の中にも入った。コンクリートの色がすべて変わってしまう頃、殴られた衝撃で思わずその上に据わるように倒れた。すぐに畳み掛けるように彼がその上に乗りかかろうとするのを殴ると、彼の口の中が切れたのか赤い唾を吐いた。それを見て一瞬手が止まった隙に髪を掴まれてすぐに彼の顔を掴んで振り解こうとする。こんな喧嘩のやり方など知らない。
「そんなのお前の八つ当たりだろ!」
「お前に言われたくない!」
再び殴られて、仕返しとばかりに顔を目掛けて手を伸ばせば彼が動いたせいで首を引っ掻いただけだった。
「どうせ俺の気持ちなんて誰にも…!」
言った途端に喧嘩を制するかのように空が光った。二人の動作が止まって、思わず空を見上げる。制服にしみた雨が急速に体を冷やして、更に自分の思考回路を落ち着かせた。何を必死で、こんなことをやっているのだろう。
「…悪い」
彼も同じように冷静になったのか、体の上に感じていた重みがなくなる。その手を差し出されたが、受け取るつもりはなかった。雨は頬の熱も冷ましていった。
雨宿りするにも今更な気はしたが、体調を崩すのは避けたいと階段の踊り場まで降りて壁に凭れると深く息を吐く。予想以上に体力を使っていたらしい。隣で彼がそのまま座ったのを見て同じように滑るように座りこむ。制服から滴り落ちた水が二人分の水溜りを作って、靴と靴下を脱ぐとその重みから解放された。小さく呼吸を繰り返したが、心拍数が落ち着いて、もう一度ゆっくりと息を吸った。ゴーグルを付けようと思ったが、レンズの内側にはすでに水がたまっていた。ふと隣を見ると彼の目は扉の向こうの光を見るたびに細くなる。
「…苦手なのか?」
「そんなことない!」
すぐに彼は否定したが、その瞬間に空の唸りが響いて肩を竦めた。彼の虚勢が脆くも崩れ去ったのがなんとなく見えた。
「雷鳴ったら試合中止になるだろ!」
確かに試合で使われるシステムへの影響を考えて雷が近づいた場合は試合の中断を余儀なくされた。だからといって苦手になって良いというものではないことくらいきっと彼もわかっているだろう。再び空が光って、彼は足を抱えて小さく丸まった。残念ながら自分は雷をそこまで怯える対象だとは思っていない。
「雷は」
隣で丸まっていた彼が顔を上げて自分を見たのがわかった。
「雲の中で水蒸気同士が摩擦を起こしてそれが貯まったときに発生するんだ。だからむやみに恐れる必要はない」
「…よくわかんない」
「だろうな」
彼の目は理解できていないとすぐにわかる。だがすぐに笑顔になった。逆にその笑顔の意味が分からずに眉間に皺を寄せる。
「俺が怖くないように気を使ってくれたんだろ、ありがとな」
あまりそういう意味ではなかったのだがと思ったが、声には出さなかった。次第に雷は近づいてきて、光と音の間隔が短くなる。扉の方を見つめていると、急に床に投げ捨てていた手にぬくもりがあって、驚いて隣を見る。
「おい…っん」
どういうつもりだと重ねられた手を動かそうとした途端に彼の顔が思っていた以上に近くて驚く。そのあとに唇に触れた温もりで、自分が何をされているのかわかる。人に触れられるのはいつ振りだろう。口付けている間にそんなことを考えていて、あっさりと体を倒される。埃がたまった床の、黴臭い匂いが混じった。
唇から移動した彼の舌に首筋を舐められて、僅かに体を震わせる。腕を抑えつける手は、自分よりも熱かった。釦が外されてシャツを捲り上げられると、それまで濡れた服から水を吸っていた肌が露になる。その手の動きがもどかしくて、こっちの方が恥ずかしくなる。彼は慣れない手で触れてきて、その度に息が上がった。
「どういう、つもりだ」
体を捩ると、彼の唇が離れる。その答えはなかった。自分の質問は彼をすり抜けて薄暗い天井へと消えていく。途中でまた扉の向こうが光って、風が唸りをあげた。それが激しくなるほど彼は自分の体に痣を残す。小さな痛みが上半身にいくつも刻まれて、次第に下へと向かう。
「や…め…っ」
彼の手が服の上から中心を掴んできて、思わず声を上げた。すでに硬くなっていたのを悟られたくはなかったのに、否応なしに服の中へと侵入して直接触れる。それだけで今まで感じたことはない熱が脳の中に押し寄せて快楽へと向かおうとする。
「やっ、あ…はなせ…っ」
「やだ、離さない」
中心に滑った感触があって慌てて手で遮ろうとするがすぐに掴まれる。なめあげられて、思わず悲鳴を上げると彼の息が僅かにかかった。羞恥ですでに顔は赤くなっていて、それを隠すことすらできずに彼は次々と侵食していく。全身の力はとっくに抜けていて、振り払うこともできず、指先に力をこめたつもりだがうまくいかない。手首を掴んでいた彼の手が離れて、床の上に落ちる。
「やっ…はっ…あ、あっ」
次第に自分の熱が集められていくのがわかって首を振るが、彼の口の熱に包まれて快楽に溺れそうになる。息をすることすら苦しくなって床に爪を立てた。先端まで追い上げられて、簡単に精を吐き出す。雨とは違う湿った音が耳に届いて、すぐに片腕で顔を隠した。それに気付いた彼は一度顔を離して、腕を掴もうとする。
「なんで、隠すんだよ」
「見せれるわけないだろ!」
俺は見たいのに、と拗ねるように言われて、何故こっちが罪悪感を感じなければならないのか自問した。けれども彼が無理矢理腕を払いのけようとはしないせいで、自分のほうが我侭を通しているような感覚に陥る。彼の手が自分の中心から更に奥へと進んで、指先が触れると思わず喉から悲鳴を上げた。構わずに彼の指は中への侵入を試みて、濡れて冷えたそこは急に熱を持ち始めた。
「ひっ、あ…無理っ…や、ああっ」
彼の体を押し退けようとその肩を押すが何の効果も生まずに、むしろ体を密着させられて息を吸ったところで中への侵入を許す。体が震えて、うまく歯が噛み合わない。内壁を無理矢理割り込まれて、その痛みに彼の服を握り締めた。先ほどまでとは違う汗が頬を伝った。急に彼の腕が自分を抱きしめて、シャツの湿った感触が直接肌に触れる。
「ごめん、でも、止められそうにない」