残照に沈む
じきに残照も沈む。光は地平線の向こうへ落ち、夜の完全な闇が招かれる。いまだ払拭されていない暗闇への恐怖なのか、それとも別のものに対しての恐れなのか、激しく込み上げた衝動は混沌そのものだった。それでも、耐えきれず慟哭のかたちに開かれた口から実際に叫び声が絞り出されることは、ない。ただ震える頬を一筋、ぬるま湯じみた水が伝い落ちるだけだ。
重荷、なんだ。たまにどうしても、自分でもどうしようもなく投げ出したくなることがある。けれど逃げ出したあと、ボクはどこに行けるというのだろう。他にどんなやりようがあるというのだろう。
ただ、悲しい。
悲しい。
『今、行くよ』
日干しレンガの共同住宅が並ぶ路地を進むと、程なく市の立つ通りに出た。活気のある町だ。客も露店商も見知った顔同士の気安い雰囲気があるが、カイロとの間に人の流れがあるせいだろうか、田舎にありがちな閉鎖的な空気ではない。舗装されていない地面を踏みならしていく町人たちの足もとから砂塵と熱風が立ち、女たちの纏う色とりどりのストールが鈍くけぶる。食材の買い物に勤しむ子連れの主婦、幼い孫に歩幅を合わせて歩く老女。青空喫茶では男連れがトランプに興じている。
日没を過ぎれば誰もあの路地に連なる日干しレンガの共同住宅へ帰るのだろう。妻子と共に親と住み、更に兄弟と彼らの子供たちが住み、大勢で食卓を囲む家族のもとへ。キャベツのマハシやサムナで焼いたチキン、モロヘイヤのスープとマハラベイヤ。トルココーヒーを片手に食後のひと時を、母親と娘たちが女同士でお喋りに興じ、祖父や父親たちは男同士で水煙草を楽しむ。ステレオタイプで、平和な家族像。一族の絆。かつてマリクが手放し、失われ、今なお焦がれてやまないもの。
この国の人間は家族を大切にする。それでもオレには、あの家を故郷と呼んだあいつの気持ちが知れない。なあ主人格よ、どんな気持ちがするものなんだ。信じていた価値観を根底から失うのは。そして、果たしてそれは、お前が傷を負うことを甘受してまで信じる価値のあるものだったのだろうか。
キャベツのマハシ、サムナで焼いたチキン、モロヘイヤのスープと、マハラベイヤ……
「どうせお前は、肉料理が嫌いなのにねえ」
それを本人に問うことを、オレは一生しない。
日除けの上着を羽織り直し、先ほど見せてもらった町の地図を頭の中に描いて大体の見当をつける。今、行くよ。もう一度口の中で呟いてから、夕闇に染まり始めた露店と行き交う人々の間を足早に歩き出した。夜の闇が訪れる前に、オレは砂漠を見渡せる場所まで辿り着かなくてはならない。
了