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獣の眼

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家康が、豊臣に異様な動きがある、と聞いたのはそれほど前のことではない。異様な動きと表現されたそれが、怒涛のごとく進撃していく豊臣軍の第一歩に過ぎなかったことを思い知ったのは、それから間もなくだった。
 群雄割拠の世で、覇王と称される豊臣秀吉率いる豊臣軍は初めから強大であった。だが、ここへ来てその覇王軍の動きが恐ろしいほど勢いを増したのだ。
 その理由の一端を担うという名を聞き、家康はその報告をした配下を前に、かすかに首を傾げて見せた。
「―――石田三成?誰だ、それは。聞いたことがないぞ」
「は……、確かに、その者が豊臣の前線へ出るようになってからさほど時は経っておりませぬ。だが近頃の豊臣軍の猛攻に深く関与している将であるとのこと」
 配下は一度言葉を切り、苦渋の表情を浮かべた。
「聞くに曰く、振るう刃は眼に見えぬ速さにして戦場を自在に駆け巡り、この将とまみえて絶命を免れた者はなく、血飛沫に塗れた能面の顔で兵を屠る姿はまるで悪鬼か般若の如しと――偵察した者も顔色を失くした様子で」
「……なるほど。修羅場を知り尽くした者でさえ慄くか」
 そうして家康は拳を握る。
「その勢い、止まるまい。……戦が近いな」



 ひとたび戦が始まれば人は瞬く間に命を落とし、絆は奪われ、大地は荒れる。
 それほどの犠牲を伴ってもなお、延々と繰り返されていく終わりのない戦乱を前に、家康は幾度目かもわからない、憤りにも似た焦燥を感じた。
 ――こんなものは、ただの絆の削り合いではないのか。
 だが戦う兵士を前にその焦り、あるいは迷いを見せるわけにはいかない。まして、今度の相手は他軍とは規模が違う。
 いま徳川軍が対峙するのは、覇王の軍勢なのだ。
 徳川と豊臣の戦が始まり、すでに数刻が経っていた。
「家康様!少しは御下がりください!」
「この戦、出し惜しみしては勝てん!ワシも皆とゆくぞ!」
 配下の鋭い声に強いて笑みを浮かべて答える。その言葉と表情に、周囲の兵たちが心配と安堵を混ぜ合わせたような顔をしておおお、と鬨の声をあげる。戦場にて高揚を保つことは重要だ。昂ぶりすぎても冷静な判断を失くしかねないという危険はあるが、一度怯えてしまえば待つのは死のみ。家康は兵を鼓舞し、自らも拳を振るいながら突き進んだ。一丸となった軍勢が駆け、
「家康様、佐方の競り合いにて我が軍が陣を奪った模様!」
「戦況は極めて我が軍に有利との報告が!」
 次々と舞い込む朗報にさらに兵の士気があがる。周囲を埋め尽くす歓声に紛れて、阿鼻叫喚の悲鳴と人体が貫かれ、刻まれ、血飛沫をあげる濡れた音が響く。家康はそれに翳りそうになる表情を必死に抑え、優勢を保つ自軍の兵を激励し続けた。
 渦巻く声と士気が最高潮に達したその時に、
「家康様ァ!」
 悲痛な叫びが耳を打った。高揚ばかりの家康の周りで、その声はいやに鋭く響いた。はたして一人の兵が前へ突き進む周囲に逆行する形で、家康の前へと転びそうになりながら走り寄る。
「ぜ、前方にて………ッ!我が軍の一部隊が、壊滅致しました……!」
 敗北ではなく壊滅、という言葉に、家康は顔を歪めて鋭く問い返した。
「何があった!」
「わかりませぬ……!ただ抵抗する間もなく全員が」
 その前方で、異様な悲鳴が立て続けに響いた。
 
 瞬間、報告をしていた兵は息を呑み、最高潮の昂ぶりを見せていた他の兵たちも一瞬動きを止め、―――家康は瞬時に全身を貫いた理由もない戦慄に、余裕をかなぐり捨てて叫んでいた。
「退け……!」
 叫んだ瞬間に家康の眼に映ったのは、視界の先にようやく捉えられるほどの遠方より、飛び出すようにして姿を見せたひとりの男の姿だった。
 自軍他軍入り混じる戦場にて、人の波を掻き分けることもせず一直線に進むその姿。それが風のように通り過ぎた瞬間に徳川軍の兵が血飛沫をあげて地面に崩れ、豊臣軍の兵ですら茫然と眼を瞠って凍りついているのがわかった。
 その男の瞬きもせぬ眼が、真っ直ぐに己を捉えている。
 ひ、と家康の周りで悲鳴があがる。斬殺など戦場にて珍しくもない光景だ、それにも関わらず、一瞥すらせずに周囲を斬り捨てて迫る敵将の禍々しい姿に、満ちていた高揚が一気に醒めあがっていく。
 一度怯えてしまえば、待つものは。
 家康はもう一度叫んだ。
「ここはいい、退け!」
 そうして両の拳を構えた家康を前に、青褪めたまま兵たちが「出来ませぬ!」と叫ぶ。
「あれはお前たちでは無理だ!ワシが抑える隙に、」
 家康が口にできたのはそこまでだった。
 気付けば目前に迫った男の銀色にひかる髪が、ぬらりと血に染まっているのすら見えた。
 ―――速い。
 反射的に家康は拳を振るう。光を帯びた拳が男の顔面を捉えるかと思われた途端、その姿が家康の前からかき消えた。その一瞬に家康を貫いた男の眼の、総てを斬り裂かんとする眼光ばかりが残像のように家康の眼に残った。
 そして家康の拳から身をかわした男は、とん、と軽く地面を蹴った。その次の瞬間に、家康の周囲の数十人もの兵がどっと地面に倒れた。一拍遅れて、その全身から血を噴出させながら。
「………ッ!」
 言葉もなく、家康は咄嗟に男の姿を追う。その男はもう一度刃を振るい、またしても兵が円状に倒れ伏していく。家康が男に拳を打ち込んでからわずかに数秒の間の出来事だった。
「やめろ、狙うのはワシの首だろう!」
 自らを売るような言葉に、男はちらりと視線を寄こした。頬に飛んだ血飛沫も拭わぬままに、何ら感慨のない眼を家康に向けた男は、ふい、とそれを逸らす。そして追い縋ろうとした家康を突き放す異様な速さで駆けて行った。その先々で悲鳴が起こる。家康は、これほど無感情な殺戮を目の当たりにしたのは初めてだった。
「忠勝!!」
 呼び声に応えて、瞬時に姿を現した武将の背に立ち、家康は鋭く命じた。
「あの男を追ってくれ!」


作品名:獣の眼 作家名:karo