獣の眼
一度目の競り合いが一旦終結した。
三成が本陣へ戻ると、先に戻っていたらしい輿に乗った男が近づいてきた。
「おお、よう無事に済んだものだ。戦国最強と徳川家康に散々に追われたと聞いたがなァ」
例えぬしと言えど、どこぞで斃れてもおかしくはない状況だったわと、男はにたりと笑う。
「……そういえば、いたな。あれが徳川家康か?」
いまさらのように相手の総大将を確認する三成に、大谷はそれでこそぬしよ、とまた可笑しそうに喉を鳴らす。三成は淡々と答えた。
「面倒そうな輩は無視をして数を斬れとの半兵衛様の御命令だ。相手にせねばそれで済んだ」
言うほど簡単なはずはないが、この男が言うとまるで猫の子を追い払ったような無頓着さだ。軍師の命令は、今後懐柔の可能性もあることを踏まえて徳川家康と遣り合うことは避けろとの意味合いであろうが、三成はそんなことはまるで推測もしていまい。
この男は命令の裏に潜む意図になど興味はなく、ただ軍師の命じるがままに動くだけだ。
さすがに三成への指示の出し方も的確よ、と大谷は感心した。
あれが、徳川家康か。
大谷と別れ、三成は総大将たる覇王のもとへ向かいながらふと思う。竹中半兵衛と豊臣秀吉は、件の将を敵軍ながら相当に評価しているということは、三成も聞き及んでいる。あの御二人にそこまで言わせながらも敵将として在るという男に、三成は珍しく個人的な不快を抱いていた。戦場で会えば叩き斬ってやろうと思っていたのだが、見逃した形になってしまった。
仕方あるまい、半兵衛様のご指示だ。
簡単にそう済ませる。あの二人が天上にいる限り、三成が屈託を抱えることはない。
だが三成は歩きながらいつのまにか脳裏で男の声を、姿を思い描いていた。
有象無象がひしめきあう戦場においてただひとり、妙に目立つ男だった。何か眼に見えない光が全身の輪郭を覆っているような、おそらくは覇気と表現して良いものを纏った男。その立ち姿を眼にした瞬間に、斬るか斬るまいか、滅多にないことではあったが三成に迷いが生じた。一筋縄ではいかないであろう予感がしたのだ。
結局は半兵衛の命令通りに無視をして先を急いだが、男は本多忠勝と共に煩く追ってきた。周囲に徳川軍がいたため少なかったが、一度か二度は上から砲撃もされた。
もうやめろ、と。
男は何度も叫んでいた。
もうよせ、止まれ、無人の天下など淋しいだろう。
三成はそれを思い出して眉根を寄せる。秀吉に逆らう者たちなど、いないほうがよほど天下とやらも清められるだろうに。
内心で反論をしながら、三成はいつのまにか辿り着いた目的地を前にして一度足を止めた。
「秀吉様、半兵衛様。只今、戻りました。戦況の御報告を」
声をあげれば、入っておいで、と柔らかな軍師の許しが与えられる。三成は見えぬと知っていながら礼をして、秀吉の元へと歩みを進める。
そうして視線をあげた先で、屈強な身体と強固な意思を持った覇王が、ただ一度だけ重々しく頷いた。それが三成への労いを示していると悟り、三成は胸のうちが震える様な感激を抱きながら、同時に意識もしない頭の隅でこう感じていた。
――その神の姿は、ついさきほど何処かで見たものにも似ている。
「あれが、石田三成だな?」
本陣へ戻った家康は、問いの形で発しながらも確信していた。予想通り、配下は短く肯定を返す。
家康は重く溜息をついた。
聞きしに勝る武将だ。忠勝と共に追ってなお、仕留めきれない相手などそうそういるものではない。そして何よりも。
あの、眼。
敵軍の総大将たる家康を、まるで虫を見る様な無感動な眼で見据えたあの姿は、一種異様な雰囲気を醸し出していた。兵を斬り捨てる時にも高揚など見せず、ただ無機質に眼に見えぬ刃を振るう。先に偵察した者が怯えたというのも納得できる。
あれは、人間の眼だろうか。
鋭い光を内包しながら光っていた。斬り捨てるべき兵のみを映し、感情など一切覗かせなかったあの眼が、家康の脳裏から離れない。
「まるで悪鬼か般若のようと……か」
ふと歌うように呟いた家康を、部下がやや怪訝な顔で見上げる。家康様?と声をかけられ、はっと我に返った家康は、首を振った。
「いや。……しかし、戦況はまだ同等か」
「は。あの男には一部の突破を許したものの、それ以前の忠勝様の猛撃と他陣での攻勢により、総力として考えれば我が軍は決して劣ってはおりませぬ!」
家康は勢い込んだ部下の声を聞きながら、思う。
そう、あれほどに犠牲を出しても、最後の言葉すら紡げないまま多くの者が死に絶えても、全体で見れば何も変わらない。徳川軍は多くの同志を奪われたが、同じほどに奪ってもいるのだ。徳川の兵が、豊臣の兵が、みな等しく絆を奪われ命を絶たれ、憎しみの輪はどこまでも巡る。
これが戦乱の世だ。
秀吉公、と。内心で家康は語りかけずにはいられない。
貴方が目指す世は何だ。それはワシの目指すものと、少しでも同じものだろうか。
もしそうであるならば、ワシは。
まだ可能性でしかないひとつの道を思い描き、家康はそっと目蓋を閉じた。
その裏で、なぜかまたあの眼がひかる。家康は静かに問いかけた。
お前のその眼が目指すものは、何だ。