【太妹】好きの代わりに馬鹿と笑って
キィ、と軋んだ音を立てたブランコから、僅かばかりに視点を上げれば慣れた顔ぶれが己の業務に追われている。
その中に、磨かれた廊下をパタパタと駆け、忙しなく動かす栗色頭を見つけて太子は溜め息を付いた。
彼のこの様なことは些か珍しい。常ならば、その背を見つけるや否や誰の制止も適わず其の男へ走りゆくのだ。
それが今は、少なくとも彼から目を離すと云う事は出来ないらしいが、其れを取り押さえる何かが胸の内にはあるらしい。今日何度目か、視界の端に映った髪色に眉を寄せるも固く唇を噛み締める。
「はあぁー…」
しかし、いつまでも此の様な思いに頭を悩ませるのは元来、得意ではない。幾度目か分からぬ重苦しい息を吐くと、ゆっくりと腰を上げて頼りの者へと歩き出した。
「こういうのもなんだが、太子は贅沢だな」
いっそ、清々しいと感じる程に己の悩みを切り捨てた彼に思わず太子は突っ伏しそうになった。
「贅沢って…」
「そうだろう? 好きな者に傍に居て貰えて、想いを受け止めて貰っても尚、それが足りないという」
「いや、別に足りないとかじゃなくて、そのーもっと我が儘言って欲しいというか、甘えて欲しいというかー」
「欺瞞だな。彼が出来ないと分かっているだろうに」
「そう、だけどさ…」
思わず言葉に詰まるも、彼の云う事が正論だと、嫌という位に頭では理解出来ている。目の前の彼は嘘もつかないし、自分の真を歪まず言の葉で返してくる。それは時折、身を隠したい程の恥を、または身を斬り裂く程の辛辣を、または震える程の怒りをもたらしてくる。しかし、それらは全て自分の根幹にある感情で、全く、鏡と話していると相違ない。
だから悔しく思うのだ。今、自分が何を望んでるかをはっきりと自覚するということは、それらの激情を認めると云う事なのだから。
「でもさ、私が呼ぶから山に付いてきて、私が命じるから傍に座って、私が…望むから枷に来て…」
彼を手に入れる前は、それでもいいと、それを覚悟していた筈だったが。貪欲にも手に収めては、もっと、もっとと更に欲に溺れていく。まるで毒である。
彼の気持ちが分からないと云う不安などでは無い。彼に申し訳ないと云うような今更の後悔も無い。私の中にあったのは、もっと凶暴で薄暗い感情だったのだ。彼の人生を全て奪ってでも、それでも私の傍に置くと覚悟した。二度と日射しの当たらぬ思いをさせてでも、逃がさぬと、その為なら足だって切り落とさんという位に。
しかし、それ位に決死の覚悟で臨んでいたと云うのに、彼は拍子抜けする程あっさりと手中に納まる事に是と頷いた。もしや意味を分かっていないのかと、口を吸い、身体に触れ、昨晩遂に其の痩躯を抱いた。
腕の中で乱れる様は酷く煽情的で、煽られるままに身体を繋いだが、翌朝目覚めて感じたのは僅かばかりの空虚。しかし彼の姿を一度、またもう一度と眼に入れる度に其れは大きくなってゆき、遂に此の様に他人に心情を吐露するはめになった。
抱いた身体は確かに熱かったというのに、闇夜の中でその目は固く閉じられて、揺さぶる度に嬌声は漏れると云うのに己の囁きには僅かばかりも返して来なかった。
「そりゃあ、恨まれるだろうなとか思ってたけどさ…」
「なら、落ち込む必要もあるまい。嫌いな者に抱かれて恨むなという方が無理な話だ」
「え、やっぱり私って嫌われてるの?」
「嫌われないだけの自信と理由が自分で言えるのか」
「言えない事も無い事も無い事も無い様な…」
「そういうのを人間は悪足掻きと呼ぶそうだぞ」
「竹中さんは人じゃないだろ」
「私なら、無い物ねだりと呼ぶ」
「あれ、おかしいな。人間に通じない筈の竹中さんの言葉が胸に鋭く突き刺さるんだけど」
とぼとぼと肩を落としながら池を離れたのが、数刻前。帰った所を馬子さんに遭遇して、濡れたズボンに眉を寄せられ、氷点下の眼差しに晒されたのが一刻前。仕事が終わって、ぞろぞろと帰る役人の足音で此処がざわめいたのが半刻前。
そして今。
誰もいなくなった筈の、足元冷える廊下をゆっくりと歩いていた所、自室の前に彼が居た。
「い、もこ…」
声に振り返ったその容姿は、月明りのせいか些か常より大人びて感じる。おそらく、昼間の様に声を大にして怒鳴りつけたり、髪を振り乱して自分を追いかけたりという様な事をしないせいだろう。
「夜分、失礼します」
慇懃にこうべを垂れ、目の前で腰を屈める彼に、ようやく我に返った太子は慌ててその肩を掴んで立たせた。
「そ、そんなもんせんでいい! どうせ私しか居ないんだし…」
其処まで口にして、改めて彼と二人きりという状況に気付いてぎくりとする。求めていた身体を抱いた昨日の今日で、しかも心の内に不穏な気配を残したままの今の己では、彼に対して何をするやも分かった物では無い。
「そういえばっ! きょ、今日はな、竹中さんの所に行って水遊びをしてだな、それでつい、はしゃぎ過ぎて其のままでんぐり返しで山を下る競争を吉田さんとして、ああ、其処にデッカイ鷹が来て攫われかけたんだけど、それで、」
「太子」
「でな…って、え? 何? 妹子」
「もう、僕には飽きましたか?」
景色が、一瞬ぐらついた。
「な、んで…?」
「…さあ」
愕然と眼を見開く太子に、対して妹子は柔らかく微笑んだ。がんがんと頭を打ち付けられたような衝撃に、傾く身体を何とか踏ん張って耐えたが、嫌な予感に警笛が鳴り響き、冷や汗が止まらない。
反って彼はそんな事を瑣末も気にはしていないようで、可愛らしく首を傾げて太子を眺めていた。其処に居るのは確かに見慣れた彼なのに、まるで見知らぬ人物を見ている様で。避けられぬ事実が舞う予感に、太子は今にも逃げ出したくなっていた。
「妹子は…私に、飽きて欲しい?」
「さあ」
「私が抱きつくのが気持ち悪かった?」
「さあ」
「抱かれるのは辛かった?」
「さあ」
「私に」
「好きだと思われるのは、気持ち悪かった?」
言った途端、ぼろりと涙が零れ落ち、ああ自分は痛いのかなどと、芒と思う。
散々、頭で理解していた、覚悟していた。そう思っていた筈だと云うのに、この有様。何だかんだと言ってみても、自分の矜持などこの程度だったと云う事だろう。
「飽きて、枷が無くなれば妹子は嬉しいか? 私の顔なんぞ見ない場所に行ければ、お前は易くなるか? ずっとずっと、吐き気がする様な想いに耐える事が無くなれば、」
―――そうすれば、妹子は幸せ?
ぼろぼろと零れる言の葉は、自分が見ない振りをしていた真である。頭の片隅を掠めるもすぐさま消し去って、また湧いて。繰り返すうちに大きくなっていったのは、やはり自分に欲があったからなのだろう。こんなやり方で得た彼に、同じ想いを抱いて欲しいだなどと、そんな幻想が故に。
「わっ、私だってな分かってるんだぞ! お前は可愛い女の子が好きで男同士なんか嫌だって。でも、私が偉いから仕方なく従ってるだけで。そうじゃないと、冠位を落とされるし。普段だって、自分にばっかりお守りをさせられて、仕事もはかどらなくて。お前は賢いから、嫌だって絶対に云わないけど、本当は私の事が殺したい位に憎いんだって。それ位…」
作品名:【太妹】好きの代わりに馬鹿と笑って 作家名:アルミ缶