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神月みさか
神月みさか
novelistID. 12163
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冷たい手

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 水音が聞こえる。
 ザアザアと、バシャバシャと、大きな水音が聞こえ続ける。

 静雄はいつまで経ってもやまないその音に、立ち上がって音源へと足を向けた。
 とは言え、音源は静雄が居たのと同じ室内だ、3歩も歩けばたどり着く。

 四畳半一間の古びたアパートに備え付けられた小さなシンク。その青錆の浮きそうな水道の蛇口から勢い良く溢れる水が音源だった。
 いや正確には、シンクで手を洗っている少年が音源だった、と言うべきだろうか。

 以前貰っていた合鍵を使い、静雄は家主の留守中に勝手に部屋に上がり込んで帰宅を待っていた。
 家主の少年が帰宅したのが十数分前で、鞄を畳に置くとすぐに手を洗い出した。
 そして今もまだ手を洗い続けている。延々と。ひたすらに。
 その為に水音がやまないのだ。

 静雄は少年の背後から腕をまわして蛇口をひねり、流水を止めた。
 反射のように小さな右手が蛇口に伸ばされるが、それも掴み止めてしまう。
 握った手は夏だというのに冷たくなってしまっていた。

「もういいだろ。お前の手は充分綺麗だよ」

 言い聞かせるようにゆっくりと静雄は囁いた。
 少年は静雄を振り返ることもなくぼんやりとした声で応じた。

「でも、まだ、汚れてるから……」
「綺麗だっつっただろ。帝人の手は綺麗だよ」
「でも、赤いのがまだこびりついて……」
「こりゃ、お前の血だ。んなにごしごし洗うから、かさぶたが剥げちまったんだ」

 強く擦り続けた為に真っ赤になってしまっている少年の手には、幾つもの傷があった。新しいものも治り掛けていたものもあったが、その内の幾つかは静雄の言葉どおり傷口が開いてしまっていた。
 少年の怪我は手だけではない。顔には大きなガーゼが貼られてあり、制服で隠れて見えない部分には数え切れないぐらいの青痣があった。

「ホラ、手当てしてやるから、こっち来て座れ。痛ェだろ」
「……手……」
「お前は誰よりも綺麗だ。だから安心しろ。ホラ、手ェ見せろ」

 静雄は小柄な身体を後ろから抱えるようにして、古びた畳の上に座り込んだ。
 用意しておいた消毒液や絆創膏を使い、怪我の手当てをする。
 静雄の手つきは不慣れで不器用だが、それ以上に手当てをするのに適さない体勢の所為で、もたもたと手際悪く、けれども丁寧に処置を終えた。

 その間、少年は手を静雄に預けたまま、ぼんやりとなにもない空間に視線を向けていた。手当てに協力するでもなく、けれども嫌がるでもなく、唯ぼんやりと。

「――ホラ、これでいい」

 少し曲がって貼られた絆創膏を見ながら静雄は言った。どうせ長くは持たないだろうと思いながら。

 少年はなにも言わない。なんの反応も見せない。
 そもそも、静雄を見ようとしない。
 静雄もそれをわかっているから、少年の正面にまわろうとはしない。こうやって背後から抱き締める。


 以前はこんなではなかった。
 あの、ゴールデンウイークまでは。

 静雄は苦い想いを噛み殺しながら思い返した。幸福で幸福でまるで夢の中にいたような過去の日々を。

 少年は静雄に笑顔を見せてくれていた。
 気兼ねなく言葉を掛けてくれて、静雄の言葉にも応じてくれた。
 やがて抱き始めた静雄の特別な感情にも気色悪がることはなく、それどころかその想いに応えてさえくれた。
 こうやって抱き締めれば、照れたように頬を染めて、それでもはにかむように笑ってくれるようになった。

 けれども、あの日、あの場所で、静雄はしてはならない失態を仕出かしてしまった。
 少年が不似合いな怪我を負い、不似合いな場所にいる不自然を平然と見逃し、決して言ってはならないことを言ってしまった。
 自分の中にある怒りと衝動を優先し、傷ついて壊れ掛けていた少年を置き去りにしてしまった。

(――俺はどうしようもねえ馬鹿だ。臨也の野郎にボロクソに言われても仕方がねえぐらいの大馬鹿だ)

 再び立ち上がろうとする少年を押さえ込んだまま、静雄は自分を罵倒した。

(なんであの時、怪我してた帝人よりもあんなクズ共を優先したんだ!? 様子のおかしかった帝人を残して暴れに行ったりしたんだ!? 俺はいつだってそうだ!! 衝動なんかに流されてばかりで、大事なことはなにひとつできやしねえ……!! いや、それだけじゃねえ、大切な奴がおかしくなってることに、ひとから言われるまで気付かねえとか、有り得ねえだろ!!)

 年若い友人の様子がおかしいことを心配した首なし妖精が、少年と深い付き合いのある静雄に秘密を打ち明け、ようやく静雄は己の失態を悟ったのだ。

『静雄がダラーズをやめたと言ったあたりから様子がおかしくなってるんだ、関係ないのかもしれないが、やはり気になってな。その――あのことを、静雄は知らないんだろう? 帝人は自分から誰かに教えたりはしていないようだから。
――いや、変なことじゃない。依存しているとか、そういうのとも違うんだ。唯ひどく大事にしていてな。
――静雄になら言っても怒られないかな? ダラーズは帝人が作って、帝人が管理しているんだ。いや、管理っていうのはサイトや掲示板や、そういったネット上の話みたいなんだが。たとえ守るべきルールはなくても、そういう部分は守ってやらなければ立ち行かなくなるものだろう?
――ホラ、私は人間じゃないし思春期みたいな年齢の記憶もないんだが、やはりそういう「初めて自分の手で作り上げたもの」というのには特別な執着を抱くものなんだろう? 自分の分身というか、もうひとりの自分みたいに感じたりする場合もあるようだし。多分帝人もそうなんじゃないか?
――ああそうだ、だから静雄が抜けると言ったことでショックを受けたんじゃないかと思ったんだ。帝人は大胆で勇敢でむしろ無謀なぐらいのところがあるが、でも実際はひどく臆病で繊細なところもある普通の子供だからな。好きな相手に大切にしているものを拒絶されたら、傷つくんじゃないか?』

 拒絶したのではない。否定したのだ。同じ空気を吸うのも嫌だと、その存在そのものを否定したのだ。

 ダラーズを抜けると帝人に言った。
 そうとだけ告げた静雄に、首なし妖精は色々と話してくれた。それは帝人と、そして静雄を案じてのことだろう。
 まさか静雄がそんな酷い言い方をしたなどとは思いもせずに。

(知らなかった、じゃ言い訳にもならねえ……!)

 あの後からだ。少年の静雄に対する態度がそっけなくなったのは。声を掛けても挨拶だけして立ち去り、会えないかと連絡しても用があるからと断られてしまうようにもなった。

 とうとう嫌われたのか、と思った。愛想を尽かされたのかと。
 過去にはそういう例があったどころかそういう例しかない程で、少年に対しても嫌われるだけの覚えはあった(なにしろ怪我をしていた彼を放置したばかりだ)。

 だから、静雄の方からも少年に近づくことをやめた。自然に離れようとしてしまった。
 それが余計に悪く働くなどとは考えもせずに、好きな相手に避けられることによって受ける痛みを回避する為に、静雄の方からも相手を避けた。

「なあ帝人。好きだ。俺は、お前が好きだ」
作品名:冷たい手 作家名:神月みさか