アムネジア
アムネジア
───赤い。
そう思ったのは、何に対してだったのか。
ただ、赤い。赤い。赤い。あか、い。
惚けた思考はそれだけしか認識出来ずにいる。
ぐらぐらと揺らぐ意識のピントをなんとか合わせてゆけば、赤く滲む風景の中で、ヒトガタの輪郭が次第にはっきりとしていく。
赤いのは。そのヒトガタも、その周りも、何もかも。これでは混ざっても仕方ない、と変な所で納得している。よく眼をこらせばその赤にも濃淡はあったのだけれど。
視界以外の感覚は全て麻痺しているかのようで、宙に浮いている。最後に残っている視界ですらも、この有様では、
何も──────
「………これで、いい。これで───」
目前の赤いヒトガタが何か言葉を発した。
意味が掴めない。けれどその声色は懐かしく響いて、より意識を鮮明にしようとさせる。しかし鮮明になると体中に火傷を起こしたような痛みを感じて挫けそうになる。再び意識のピントがずれ始めた。
「衛宮士郎は英雄にはならない。
お前は───」
エミヤシロウ。その単語が告げられた瞬間、一気に思考が痛みを乗り越えた。痛みなどどうでもいい。それよりも、目の前に居るヤツのことを───俺は───
「お前は、オレにはならない」
低く落ち着いた声色は、何を伝えようとするのか。身の自由など一つとして戻らないくせに痛みばかりが甦るが、それを代償として俺は漸くそのヒトガタを確定する事ができた。煤けた硝煙のような煙幕越しにぼやけた先に。久しく見なかった、騎士の武装。地獄の釜を連想するような深い赤の外套を纏うその姿は、まごう事なき理想の具現。
そして場違いな程──────安らいだ顔を、俺に向けていた。
「………ア」
やっと搾り出せた言葉はたったの一文字。
目の前に居る、誰よりも何よりも近かったはずの、たった一人の男を呼びたいのに
今の俺はどうしてこんなにも不自由で
「士郎」
まったく言葉にもならない俺をよそに、確かな言葉を紡ぐ男は。
「精々───平凡に暮らせよ。お前にはそれが似合いだ」
辛辣な言葉遣いの癖に、本当は優しすぎる程に優しい意図に胸が締め付けられるよう。
アーチャー。なんで。アーチャー? それじゃ、まるで、別れの挨拶みたいだ
そう言いたいのに、喉に力が入らない。ひゅう、と呼気が行き来するだけが精一杯で。そんな俺の心を知ってか知らずか。屈みこむヤツが、そっと俺の額をその大きな手で撫ぜてくる。
「………心配は無用だ。もうじき救援が来る。お前達は助かる」
何だよ、それ。
「お前達」って───
まるで、そこには。お前が、含まれていないみたいじゃない、か
「悪いな─── これが限界らしい」
額にかかる手には重さがない。なのに、何故こんなに温かい
い、や、だ
言葉にならないまま、口だけを動かす。頭を振る。けれど何もかもが弱くて、もどかしい。
「詮無いことを言うな」
困ったように笑う、いつもの顔が煙に遮られる。否、遮られて翳むのではなく。その存在自体が翳んでいるのだと
信じられなくて
信じたくなくて
受け入れられずにいる俺を見限って、男は立ち上がった。
───役目は、終わった。
そう告げるように、赤いヒトガタは再び風景に溶けていく。
「あ──────ぁ」
呼び止める声も出ないまま
引き留める手も伸ばせないまま
ありえざる英雄の存在は
この地上より消滅した。
その異変に気付いたのは、明け方も近い頃だった。浅い眠りに委ねる意識を揺らすのは───腕に縋る少年の震え。
元より眠りを必要としない身であるから、覚醒は容易に。
「──────、───」
様子を伺えば、言葉にならない何かを呻きながら魘されている。薄明かりの中目を凝らせば、発熱したかのようなひどい発汗。
ただ事ではないその様相に戦慄を覚え、その肩を揺すった。
「………っあ───、あー、ちゃー」
目を覚ました士郎が切れ切れに名前を呼んできた。それはまるで言葉を覚えたての幼児のようにたどたどしい。
「どうした、士郎?」
「あ、ああ………っ」
こちらの存在を認識すると、震えを更に大きくして。嗚咽を漏らし始めた。汗に混ざって大粒の雫が頬をこめかみを伝い落ちる。その顔を見てしまうとどうにも胸が苦しい。どういう理由でも、泣かれるのは苦手だった。
「何だ、夜泣きか? まるで赤子だな」
辛気臭くならぬように、わざと小馬鹿にしたように告げるが。
「うぁ、ぁ、ゃ、だっ、───行くな、アーチャーっ………!」
まったく聞く耳を持たず、喚いて縋り付いて来た。まだ夢の中に居るらしい。
「何を寝惚けている………しっかりしろ。私が何処に行くというのだ?」
「あ………」
肩を掴んで僅かに引き離し、強い語気で問うと、士郎の瞳に正気が戻ってきた。
「目が覚めたか、馬鹿者」
「う、ぅ………っ」
癇癪は収まったが、余韻に震えて唇を噛み締めながら嗚咽する。窘められて抑えようと堪えているのが余計に痛々しく見えた。
「───やれやれ」
はあ、と溜息をついて。未だ震える細い肩を、こちらの胸に強く引き寄せた。抱擁と呼ぶにはきついぐらいに力を込めて。
「っ、あ」
ぎしっ、と軋む程に強く抱かれて息を詰めるが、次第に全身に入っていた力が抜け落ちていくのが分かる。こういう時は言葉よりも身体で示す方が確実だ。
「夢に惑わされて泣くな。現実はこちらだ、士郎」
「う、うー、いてぇ、よ、この馬鹿力っ………」
もぞもぞと腕の中でみじろぎながら、やっと砕けた物言いが出てきて安堵する。
「お前こそ人の背中に爪を立てているだろう」
先程から、ずっと鉤爪で固定されたかのようにガッチリと背中に食い込んでいる。布越しでも痕が残っているのは確実と思える力の入りようだ。
「あ、ごめ………」
慌てて爪から力を抜くも、代わりに寝巻きの布をぎゅっと掴むのが伝わってくる。抗いがたい不安は墜落の恐怖に似て、縋っていなければ耐えられないのだろう。抱く腕からそっと力を抜けばまたその身に緊張が走る。その背中をゆっくりと摩ってやると、漸く力が抜けてきた。
「まったく───夢見でも悪かったのか? 話せるものなら話してみろ」
こつ、と額に額を当て、尋ねる。無理強いをするつもりはないが、言葉に出来るものならしてしまった方が溜め込む物がなくなる分いい。
「………ん」
荒れた喉を鳴らし、暗い眼差しを投げ。思い出したくもないだろうそれを、口にし始めた。
泣きつかれて再び眠りについた士郎を抱きとめ、掛布団を引き寄せて身を沈める。
朝は未だ遠い。
「………同調しすぎるのも、困り物だな」
眠りつく前に聞きだした夢の内容を回想し、溜息をつく。断片的に思い出し呟いては息を詰めてまた泣いて、それを宥める事の繰り返しの結果。その要因は紛れもなくこちらにあった。思い当たるフシが有り過ぎた。
───赤い。
そう思ったのは、何に対してだったのか。
ただ、赤い。赤い。赤い。あか、い。
惚けた思考はそれだけしか認識出来ずにいる。
ぐらぐらと揺らぐ意識のピントをなんとか合わせてゆけば、赤く滲む風景の中で、ヒトガタの輪郭が次第にはっきりとしていく。
赤いのは。そのヒトガタも、その周りも、何もかも。これでは混ざっても仕方ない、と変な所で納得している。よく眼をこらせばその赤にも濃淡はあったのだけれど。
視界以外の感覚は全て麻痺しているかのようで、宙に浮いている。最後に残っている視界ですらも、この有様では、
何も──────
「………これで、いい。これで───」
目前の赤いヒトガタが何か言葉を発した。
意味が掴めない。けれどその声色は懐かしく響いて、より意識を鮮明にしようとさせる。しかし鮮明になると体中に火傷を起こしたような痛みを感じて挫けそうになる。再び意識のピントがずれ始めた。
「衛宮士郎は英雄にはならない。
お前は───」
エミヤシロウ。その単語が告げられた瞬間、一気に思考が痛みを乗り越えた。痛みなどどうでもいい。それよりも、目の前に居るヤツのことを───俺は───
「お前は、オレにはならない」
低く落ち着いた声色は、何を伝えようとするのか。身の自由など一つとして戻らないくせに痛みばかりが甦るが、それを代償として俺は漸くそのヒトガタを確定する事ができた。煤けた硝煙のような煙幕越しにぼやけた先に。久しく見なかった、騎士の武装。地獄の釜を連想するような深い赤の外套を纏うその姿は、まごう事なき理想の具現。
そして場違いな程──────安らいだ顔を、俺に向けていた。
「………ア」
やっと搾り出せた言葉はたったの一文字。
目の前に居る、誰よりも何よりも近かったはずの、たった一人の男を呼びたいのに
今の俺はどうしてこんなにも不自由で
「士郎」
まったく言葉にもならない俺をよそに、確かな言葉を紡ぐ男は。
「精々───平凡に暮らせよ。お前にはそれが似合いだ」
辛辣な言葉遣いの癖に、本当は優しすぎる程に優しい意図に胸が締め付けられるよう。
アーチャー。なんで。アーチャー? それじゃ、まるで、別れの挨拶みたいだ
そう言いたいのに、喉に力が入らない。ひゅう、と呼気が行き来するだけが精一杯で。そんな俺の心を知ってか知らずか。屈みこむヤツが、そっと俺の額をその大きな手で撫ぜてくる。
「………心配は無用だ。もうじき救援が来る。お前達は助かる」
何だよ、それ。
「お前達」って───
まるで、そこには。お前が、含まれていないみたいじゃない、か
「悪いな─── これが限界らしい」
額にかかる手には重さがない。なのに、何故こんなに温かい
い、や、だ
言葉にならないまま、口だけを動かす。頭を振る。けれど何もかもが弱くて、もどかしい。
「詮無いことを言うな」
困ったように笑う、いつもの顔が煙に遮られる。否、遮られて翳むのではなく。その存在自体が翳んでいるのだと
信じられなくて
信じたくなくて
受け入れられずにいる俺を見限って、男は立ち上がった。
───役目は、終わった。
そう告げるように、赤いヒトガタは再び風景に溶けていく。
「あ──────ぁ」
呼び止める声も出ないまま
引き留める手も伸ばせないまま
ありえざる英雄の存在は
この地上より消滅した。
その異変に気付いたのは、明け方も近い頃だった。浅い眠りに委ねる意識を揺らすのは───腕に縋る少年の震え。
元より眠りを必要としない身であるから、覚醒は容易に。
「──────、───」
様子を伺えば、言葉にならない何かを呻きながら魘されている。薄明かりの中目を凝らせば、発熱したかのようなひどい発汗。
ただ事ではないその様相に戦慄を覚え、その肩を揺すった。
「………っあ───、あー、ちゃー」
目を覚ました士郎が切れ切れに名前を呼んできた。それはまるで言葉を覚えたての幼児のようにたどたどしい。
「どうした、士郎?」
「あ、ああ………っ」
こちらの存在を認識すると、震えを更に大きくして。嗚咽を漏らし始めた。汗に混ざって大粒の雫が頬をこめかみを伝い落ちる。その顔を見てしまうとどうにも胸が苦しい。どういう理由でも、泣かれるのは苦手だった。
「何だ、夜泣きか? まるで赤子だな」
辛気臭くならぬように、わざと小馬鹿にしたように告げるが。
「うぁ、ぁ、ゃ、だっ、───行くな、アーチャーっ………!」
まったく聞く耳を持たず、喚いて縋り付いて来た。まだ夢の中に居るらしい。
「何を寝惚けている………しっかりしろ。私が何処に行くというのだ?」
「あ………」
肩を掴んで僅かに引き離し、強い語気で問うと、士郎の瞳に正気が戻ってきた。
「目が覚めたか、馬鹿者」
「う、ぅ………っ」
癇癪は収まったが、余韻に震えて唇を噛み締めながら嗚咽する。窘められて抑えようと堪えているのが余計に痛々しく見えた。
「───やれやれ」
はあ、と溜息をついて。未だ震える細い肩を、こちらの胸に強く引き寄せた。抱擁と呼ぶにはきついぐらいに力を込めて。
「っ、あ」
ぎしっ、と軋む程に強く抱かれて息を詰めるが、次第に全身に入っていた力が抜け落ちていくのが分かる。こういう時は言葉よりも身体で示す方が確実だ。
「夢に惑わされて泣くな。現実はこちらだ、士郎」
「う、うー、いてぇ、よ、この馬鹿力っ………」
もぞもぞと腕の中でみじろぎながら、やっと砕けた物言いが出てきて安堵する。
「お前こそ人の背中に爪を立てているだろう」
先程から、ずっと鉤爪で固定されたかのようにガッチリと背中に食い込んでいる。布越しでも痕が残っているのは確実と思える力の入りようだ。
「あ、ごめ………」
慌てて爪から力を抜くも、代わりに寝巻きの布をぎゅっと掴むのが伝わってくる。抗いがたい不安は墜落の恐怖に似て、縋っていなければ耐えられないのだろう。抱く腕からそっと力を抜けばまたその身に緊張が走る。その背中をゆっくりと摩ってやると、漸く力が抜けてきた。
「まったく───夢見でも悪かったのか? 話せるものなら話してみろ」
こつ、と額に額を当て、尋ねる。無理強いをするつもりはないが、言葉に出来るものならしてしまった方が溜め込む物がなくなる分いい。
「………ん」
荒れた喉を鳴らし、暗い眼差しを投げ。思い出したくもないだろうそれを、口にし始めた。
泣きつかれて再び眠りについた士郎を抱きとめ、掛布団を引き寄せて身を沈める。
朝は未だ遠い。
「………同調しすぎるのも、困り物だな」
眠りつく前に聞きだした夢の内容を回想し、溜息をつく。断片的に思い出し呟いては息を詰めてまた泣いて、それを宥める事の繰り返しの結果。その要因は紛れもなくこちらにあった。思い当たるフシが有り過ぎた。