なれの果て
「あー、めんどくせーめんどくせーめんどくせえある!」
台所から離れた風呂場へ籠った途端、王耀は遠慮なく悪態をついた。大体、今回のことだって上司の強い希望がなければ王耀は断固拒否するつもりだった。いまさら顔を合わせたところで、あの骨まで抉るような傷つけ合いの記憶は消えない。ならば知らぬふりで通すしかないものを、はなから挑発せずにはいられなかったせいで微妙な雰囲気のままこの有様だ。面倒くさい。王耀はがしがしと頭を掻いて呻いた。
「畜生、やっぱ断わりゃよかったある」
友好の印に、ということで今回の訪問が組まれたわけだが、それが形式的なものであることを王耀も、おそらくは菊とて承知している。
いまさらなのだ。
昔、今思えばはるかな昔に掌中にあった、なくしてしまったちいさなこどもは、決して戻りやしないのだから。
そう連想してしまったのがいけなかった。その瞬間に目蓋の裏に翻った、懐かしい子供の愛らしい笑顔などを見てしまったせいで、王耀はもう一度呻く羽目になった。
還ってこないものなどいらない。己のものでないこの国などいらない。
菊。菊。菊、いびつに変わり果ててしまった我の、
――その先を考えるのはやめて、王耀は歪んだ笑みを唇に浮かべたまま上着を脱ぎ始めた。冷えた空気がひやりと肌を這う。さっさと入っちまおう、と王耀が身を竦めたところで、からりと軽い音を立てて脱衣所の扉が開いた。
何をそんなに時間をかけていたのか。とうに風呂に入ったろうという頃合いを見計らって手拭いと着替えを届けにきた菊は、脱衣所で上半身だけ裸のまま硬直した相手に出くわすことになった。
そして菊もまた、それを眼にした瞬間に動きを止めないわけにはいかなかった。
男の露わになった背には、太い蚯蚓が這ったような、引き攣れた傷がある。
菊の視線がそれを追ったことに当然のように気付いた男の肩が、小刻みに震えた。
普段の菊であれば。これが他の相手でさえあれば。
菊は相手の触れがたい場所を眼にしたことなどなかったように、素知らぬ顔で笑顔を浮かべて、着替えを届けにきましたよ、とそれだけ伝えることができたろう。
だが、その醜悪な傷は菊のものだった。
その傷を持つ相手は、菊が傷つけ、傷つけられた、遠い昔に慕っていた尊い人のなれの果てだった。
だから菊はこんな時にはいつも使う曖昧な笑みを浮かべることはせずに、淡々とした無表情のままそろりと足を進めた。その途端、硬直を解いた相手が顔を歪めて言った。
「間の悪い奴あるな!さっさとそれ置いて出てけある!」
「まだ痛みます?」
菊がまったく前後を無視して問うと、王耀は一瞬、とてもわかりやすく傷ついた顔をした。菊は無表情のまま大層驚いた。まさか、まだ、こんなに容易く自分がこの相手を傷つけうるとは思っていなかった。
「い、てえわけないあるよ!こんなもんただの古傷で」
「そうなんですか」
言いながら、菊は無造作に手を伸ばした。細い指が、あまりに抵抗なく傷に触れようとするのを、王耀は慌てて正面を向くことで避ける。間近で向き合った菊は、黒い瞳に幼さをのせて、小さな子供のような顔をしてみせた。
「―――その顔は好かんある」
「どの顔でしょう」
「だからとぼけんなある!お前はいつもそうやって―――」
唐突に、王耀は言葉を切った。つと緩やかに動いた菊の両腕が、触れるか触れないかの瀬戸際を這うようにして、正面から王耀の背中へ回されたからだ。
その形は抱擁にひどく似ていた。
「ねえ、耀さん」
言葉と同時に、しろい指先が背中の傷をなぞるのがわかった。傷の縁の盛り上がった部分を、小さな爪がかり、と引っ掻く。なぜか跳ね除けることもできずにもう一度肩を震わせた王耀は、言葉もないままにそろりと視線を落とすが、己よりも少しばかり低い位置にある顔は、近すぎてどうしても見えなかった。
「どうして私たちは、」
忘れたふりすらできやしない。