跡誕2010
窓越しの祝福【橘桔平】
懐かしい男を見た。
特別親しかったわけではない。ただ、あの頃の中学テニス界で奴の名を知らない者はいなかっただろう。手塚や幸村、真田などと並んで、常に注目の的となっていたアイツを。
俺は決して周りの奴らのように憧憬や妬みといった感情を奴に抱いていたわけではない。それどころか、自分には、アイツに勝るとも劣らない実力がある筈だという自負があった。遂に対戦の機会には恵まれなかったものの、それは奢りではないだろう。
もちろん、同じテニスプレイヤーとして敬意を持っている部分はあった。その実力はもちろん、奴のテニスにかける情熱には時に圧倒された。例えるならそれは凍てつく炎。周囲を凍りつかせる冷気を放ちながら、触れれば火傷をしてしまうほどの灼熱。
二十六歳の跡部景吾は、暮れ泥む街角の小さなカフェの窓辺で、横文字の文庫本をめくりながら珈琲を啜っていた。ラケットを持っていない時の優雅な佇まいはあの頃の面影をそのままに、身長は少し伸び、顔つきはますます精悍さを増し、記憶より少し長めの髪が大人の色気さえ漂わせている。仕事を終わらせた帰りなのか、仕立てのいいスーツ姿で、時間を気にしている様子はない。
声をかけるつもりはなかった。久しぶりに会ったからと言って、積もる話がある相手でもない。しかしカフェの前を素通りしようとした刹那、跡部が顔をあげた。俺の姿を目にするや一瞬瞠目し、だがすぐに眦を緩めて口許を綻ばせる。それはあの頃よりもずっと穏やかで、氷よりも綿雪を思わせる表情だ。尤も、そこにあるのはすぐに溶けるような儚さではない。
俺は数秒息をのみ──それを吐き出すように笑い返す。
「……兄さん?」
前を歩く妹の呼びかけに軽く応じ、そしてまた、歩き始めた。
藍色に侵食され始めた空を見上げ、鞄の中を探る。取り出した携帯でモバイルツイッターに接続し……そういえばあの頃は、ツイッターなんてものも存在しなかったな……などと思いながら、ただ一言をポストする。
「懐かしい男を見た」
すると、俺がツイッターを始めた当時すぐに嗅ぎ付けてフォローしてきた男から、素早いリプライが返ってくる。
『誰々!?あ、待って、まだ答えないで!当てるから!』
次のリプライを待たずに携帯を閉じ、俺は時の流れを思った。
変わってしまったものと──変わらないものとを。