跡誕2010
東方は軽く肩を竦め、腕の中の黒猫をそっと撫でた。猫はわずかに暴れ、東方の手を払おうとする。
「ほら、この動き。飼い主の愛情が込められているような気がしないか?」
「確かに。いやにリアルな反応だな」
フォルダから資料ファイルを呼び出していた南は、作業を中断して顔をしかめた。
「面倒なことにならなければいいけど」
終業後、政府権限で黒猫に移動コマンドを打ち込んだ東方は、そのままPoT内の居住スペースに座標を移した。ペットアプリケーションは世話を怠ると「デッド状態」になり、それはすなわちペットの死を意味する。一度デッド状態になったアプリケーションを初期化して再起動することはできない。それを防ぐために、誰かが世話をしなければならないのだ。
マンション風のルームグラフィックが読み込まれると、早速黒猫をゲストとしてスペースに招き入れる。テーブルの上にはすでに料理が並べられ、美味しそうな湯気をたてていた。それらを口にしても実質的な食事とはならないが、擬似的な味覚を感じとり、味わう楽しみを再現する。東方は黒猫に餌を用意してから、自分もまた先に食事を済ませることにした。
すべての皿が空になる頃、来客を知らせるチャイムが鳴った。東方は膝の上に乗せていた黒猫をソファにおろして立ち上がり、モニターを開いてゲストのIDを確認する。そこには、H-03-Aとあった。
HはPoT上の仮想帝国【氷帝】を表し、03は軍属を意味している。そしてAとは、その上層部の幹部であることを示す略号だった。つまりそれは、たとえ東方が相手の入室を拒否しても、相手は強制的に立ち入る権限を持っているということだ。
拒否をする理由などないが、何故軍幹部が一監視官である自分を訪ねてきたのか、東方には見当もつかなかった。チームの業務内容に軍備システムへの介入は含まれていない。軍には軍の監視機構がある。
そこまで考えたところで、東方はハッとした。もしや、あの黒猫の飼い主か── 一時間ほど前に告知したことを思えば、そろそろ引き取りに来てもおかしくない頃合いだ。
東方はチャット画面を開き、ドアの向こうの相手に向かって音声で呼び掛ける。
「お名前とご用件は?」
「氷帝国軍総司令官、跡部景吾だ」
東方は耳を(正確には脳を)疑った。
氷帝の【跡部景吾】を知らぬ者はいない。何故なら彼はPoTのプログラマと氷帝の運営者の息子なのだ。
確かに軍の総司令官には違いないが、一般には【皇太子】として知られている。
「………ペットを、引き取りにきた」
入室を許可しドアを開けると、そこには軍服に身を包んだ端正な顔立ちのアバターが立っていた。冷たさの中に熱を孕むアイスブルーの瞳が、品定めするように東方を射る。
やがて跡部は目を細めると、視線を東方の背後にさ迷わせる。そしてソファの上で丸くなっている黒猫を確認すると、安堵したようにほんの少しだけ表情を和らげた。
「………あなたがあのペットアプリケーションのユーザーである証明は?」
東方はあくまでも事務的に訊ねた。相手の態度が証明にはなっていたが、客観的な物証がなければ、問題のアプリケーションを引き渡すわけにはいかない。
跡部はわずかに眉を寄せたが特に文句は言わず、恐らくは黒猫のものであろう名前を口にした。すると猫はまるで呼び掛けに答えるようににゃぁと一声鳴き、コマンドの打ち込みを要せずに跡部のもとへ駆けてきた。──十分すぎる証拠だった。
「失礼しました。しかしそのアプリケーションは、違法なものではありませんか?」
猫を抱き上げる跡部の姿をほほえましく思いながらも、東方は淡々と告げるべき事を告げる。
跡部はそれを不快に思うどころか、声をあげて笑った。
「いや。一体だけ、それが認められているアプリケーションがあるだろう」
まさか。
東方の額に冷や汗が浮かぶ。
跡部はその様子を見ておかしそうに笑った。
「こいつはPoTのマザープログラム──つまり、PoTそのものだ」