夕陽
抜けるような青い空が、頭上に広がっている。
風が枝を震わせる音と、馬の蹄の音しかしない。静かな昼下がりだった。
ミゲルの前には、やわらかい日差しを浴びて黒馬を駆る主君の姿が映っている。今日のような陽気の日には、愛馬で遠乗りに出かけるのが、彼の主君チェーザレ・ボルジアの常であった。普段と違うのは、チェーザレがいつもよりも心なしか上機嫌であることと、常に複数いる護衛が、今日はミゲル一人しかいないことだ。
「真っ昼間から護衛をぞろぞろと引き連れて行きたくない。一人いれば十分だ。」と、チェーザレが強硬に主張するのに折れ、ミゲル一人だけが遠乗りに付き合わされている。
ミゲルが今日の『特別な』お伴に選ばれたのは、チェーザレの指名もあるが、妙な我儘を言い出した気難しい主君に、一人きりで付き合わされることを、皆嫌がったからでもある。アルバロなどは、にやにやしながら、全く心のこもっていない声で「ミゲル、お前も大変だなあ。」と言ったものだ。
チェーザレの我儘や気まぐれは面倒だが、それでもミゲルの目が届く範疇を超えていなければ止めはしない。お説教は家庭教師であるフランチェスコ・レモリネスの役目だ。
「そろそろ休憩しよう、ミゲル。」
チェーザレが手綱を引いて馬の脚を止めた。ミゲルが振り返ると、遠く丘の向こうにピサ大聖堂の屋根が小さく見える。今日はいつもより遠出したようだ。馬を繋ぎ、適当な木陰を見つけて腰を下ろす。水で薄めたワインが入った革袋をチェーザレに差し出すと、チェーザレは黙って口を付けた。顎を上げてワインを飲むチェーザレの横顔に、木漏れ日が当たり、白い肌に光がはね返る。
「…今日は少々、遠出のしすぎではないか?」
革袋を受け取りながらミゲルが言うと、チェーザレは少し顔をしかめた。
「ちゃんとお前を連れてきているだろう。」
本当は一人で来たかったのに、と呟きながら、両の脚をシロツメクサが覆う地面へ投げ出した。
伴を一人だけ連れて馬で遠乗りに出ることが、上等な絹の衣服を着、大勢の家臣に傅かれるこの大貴族の御曹司が最大限まで譲歩した『自由』なのだ。これだけ遠くへ来れば、通りかかる者すらいない。…敵はもちろん、ボルジアの財力の恩寵に与ろうと群がるものも、権力を利用しようと企む腹黒い輩も、容姿に秀でた若い貴族の息子をひと眼見ようとする物見高い女どもも、誰もいない。
チェーザレ・ボルジアの心は、誰もいない場所に来て、ほんのいっときだけの解放を味わう。
木陰に守られて澄んだ空を眺めるチェーザレを、ミゲルは繋いだ馬のそばに立ったまま眺めた。少しでも、一人になる時間を作ってやるほうがいい。風が、美しい黒い巻き毛を優雅に揺らす。
『神の恩寵』…華やかな容姿、優れた頭脳、家柄、権力、財力、およそ人間が生きていれば渇望するもののすべてを、生まれながらにして手にしているこの男を見ると、神の恩寵を感じずにはいられない。しかしその恩寵は、一人の若者から、自由も、母の愛も、そして…本当にやりたかったであろう夢も、奪ってしまう。
果たして、そこに人の幸せはあるのか。
(俺には、あんな恩寵はいらないな。)
「いつまで突っ立っているんだ、ミゲル。」
チェーザレが木陰の向こうから身を乗り出して声をかけてくる。
「…お前の邪魔になるだろうと思って。」
ミゲルの言葉に、寸の間、チェーザレはミゲルを見つめた。
「伴を一人連れていく、と言ったのは私だぞ。邪魔ではないから連れてきている。」
木陰の向こうに体をもどしながら、「ここへ座れ、ミゲル。」自分の隣を指し示した。
つい先ほど、「一人で来たかった」とぼやいたのと、反対のことを言っている。
言われるまま、ミゲルは馬から離れてチェーザレの隣に腰を下ろした。風が、音も立てずにミゲルの前髪をわずかに揺らす。隣のチェーザレを横目で見ると、考え事でもしているのだろうか、静かに空を眺めている。横へ座るよう呼ばれたが、特に用があるわけでも、小難しい話の相手をしなくてはならないわけでもないらしい。ときどき、チェーザレにはこういうことがある。そんな時、ミゲルはただ黙って、チェーザレの邪魔にならないようにじっとしていた。
ミゲルの思考も行動も、すべてチェーザレが中心になっている。幼いころよりそう躾けられた。チェーザレの側付きとして引き取られ、チェーザレの護衛の筆頭となり…。チェーザレがいなければ、ミゲル本人の存在価値などない。チェーザレがいなければ、地面に彼の影がうつることもないのと、同じだ。そんな自分が哀れとも思わない。世の中は、存在価値が認められないまま死んでいくもののほうが、そうでないものより圧倒的に多いのだ。ミゲルも、ボルジア家に引き取られなければ、孤児の異教徒として世間からはじかれて生きていく運命のはずだった。
自分に価値がついただけ、ずっといい。たとえそれが、他人に完全に依存したものだとしても。
そしてミゲルは最近、依存する相手がこの男なら、そんな人生も悪くない、と思い始めていた。
チェーザレは、さらに高みへ、さらに光のある場所へと、自らを引き上げようとする。
光が強くなれば、後ろにできる影もまた濃くなる。
「こんな天気の良い日に、お前と二人きりというのも、悪くないな。」
突然の声に顔を向けると、チェーザレがミゲルを眺めて微笑んでいた。
いつから見ていたんだろう…。
ミゲルは、意識していなかった視線に、少し焦りのようなものを感じた。その動揺を悟られまいと「そうか?」とそっけない返事をした。
「いつもながら愛想がない男だな。」
チェーザレが苦笑する。
「せっかく二人きりなのに。」
「お前に今更愛想よくしても、何の得にもならないだろう。第一、さっきは一人がよかったと言ったぞ。」
ミゲルがチェーザレの言葉の矛盾を指摘すると、上機嫌にしていた顔をふっとしかめた。
「それは、お前がつまらないことを言うからだ。」
「身辺警護に、面白いもつまらないもない。」
「とことん味気のない男だな。」
チェーザレは盛大な溜息をついた。
「せっかく二人きりなのに。」
ミゲルがチェーザレを見ると、チェーザレはむくれた顔で、遠くの景色を眺めていた。
先ほどから、何度も同じ言葉を言っている。
「なにか、言いたいことがあるのか、チェーザレ?」
「なにが。」
「お前、さっきから同じことを言っているぞ。」
チェーザレは再び盛大な溜息をついた。
「そこまで気づいていて、肝心なことには気づかない。まったく、ミゲルは朴念仁だな。」
チェーザレの言った意味はよく分からないが、けなされたことは分かった。
「一体、なんで機嫌をそこねているんだ?」
チェーザレの顔が、ますますしかめっ面になった。
「お前が、あまりに鈍感だからだ。」
「…そりゃ、悪かったな。」
ミゲルは面倒くさそうに謝った。この気難しい男に、自分は十分付き合っていると思うのだが。それでもこのおぼっちゃまには足りないらしい。
そのまま、チェーザレは黙ってしまった。ミゲルも、あえて話そうとはしない。
どれくらい沈黙が流れただろうか。
不意に、チェーザレがミゲルに顔を寄せてきた。
「なんだ?」
「黙って。」
風が枝を震わせる音と、馬の蹄の音しかしない。静かな昼下がりだった。
ミゲルの前には、やわらかい日差しを浴びて黒馬を駆る主君の姿が映っている。今日のような陽気の日には、愛馬で遠乗りに出かけるのが、彼の主君チェーザレ・ボルジアの常であった。普段と違うのは、チェーザレがいつもよりも心なしか上機嫌であることと、常に複数いる護衛が、今日はミゲル一人しかいないことだ。
「真っ昼間から護衛をぞろぞろと引き連れて行きたくない。一人いれば十分だ。」と、チェーザレが強硬に主張するのに折れ、ミゲル一人だけが遠乗りに付き合わされている。
ミゲルが今日の『特別な』お伴に選ばれたのは、チェーザレの指名もあるが、妙な我儘を言い出した気難しい主君に、一人きりで付き合わされることを、皆嫌がったからでもある。アルバロなどは、にやにやしながら、全く心のこもっていない声で「ミゲル、お前も大変だなあ。」と言ったものだ。
チェーザレの我儘や気まぐれは面倒だが、それでもミゲルの目が届く範疇を超えていなければ止めはしない。お説教は家庭教師であるフランチェスコ・レモリネスの役目だ。
「そろそろ休憩しよう、ミゲル。」
チェーザレが手綱を引いて馬の脚を止めた。ミゲルが振り返ると、遠く丘の向こうにピサ大聖堂の屋根が小さく見える。今日はいつもより遠出したようだ。馬を繋ぎ、適当な木陰を見つけて腰を下ろす。水で薄めたワインが入った革袋をチェーザレに差し出すと、チェーザレは黙って口を付けた。顎を上げてワインを飲むチェーザレの横顔に、木漏れ日が当たり、白い肌に光がはね返る。
「…今日は少々、遠出のしすぎではないか?」
革袋を受け取りながらミゲルが言うと、チェーザレは少し顔をしかめた。
「ちゃんとお前を連れてきているだろう。」
本当は一人で来たかったのに、と呟きながら、両の脚をシロツメクサが覆う地面へ投げ出した。
伴を一人だけ連れて馬で遠乗りに出ることが、上等な絹の衣服を着、大勢の家臣に傅かれるこの大貴族の御曹司が最大限まで譲歩した『自由』なのだ。これだけ遠くへ来れば、通りかかる者すらいない。…敵はもちろん、ボルジアの財力の恩寵に与ろうと群がるものも、権力を利用しようと企む腹黒い輩も、容姿に秀でた若い貴族の息子をひと眼見ようとする物見高い女どもも、誰もいない。
チェーザレ・ボルジアの心は、誰もいない場所に来て、ほんのいっときだけの解放を味わう。
木陰に守られて澄んだ空を眺めるチェーザレを、ミゲルは繋いだ馬のそばに立ったまま眺めた。少しでも、一人になる時間を作ってやるほうがいい。風が、美しい黒い巻き毛を優雅に揺らす。
『神の恩寵』…華やかな容姿、優れた頭脳、家柄、権力、財力、およそ人間が生きていれば渇望するもののすべてを、生まれながらにして手にしているこの男を見ると、神の恩寵を感じずにはいられない。しかしその恩寵は、一人の若者から、自由も、母の愛も、そして…本当にやりたかったであろう夢も、奪ってしまう。
果たして、そこに人の幸せはあるのか。
(俺には、あんな恩寵はいらないな。)
「いつまで突っ立っているんだ、ミゲル。」
チェーザレが木陰の向こうから身を乗り出して声をかけてくる。
「…お前の邪魔になるだろうと思って。」
ミゲルの言葉に、寸の間、チェーザレはミゲルを見つめた。
「伴を一人連れていく、と言ったのは私だぞ。邪魔ではないから連れてきている。」
木陰の向こうに体をもどしながら、「ここへ座れ、ミゲル。」自分の隣を指し示した。
つい先ほど、「一人で来たかった」とぼやいたのと、反対のことを言っている。
言われるまま、ミゲルは馬から離れてチェーザレの隣に腰を下ろした。風が、音も立てずにミゲルの前髪をわずかに揺らす。隣のチェーザレを横目で見ると、考え事でもしているのだろうか、静かに空を眺めている。横へ座るよう呼ばれたが、特に用があるわけでも、小難しい話の相手をしなくてはならないわけでもないらしい。ときどき、チェーザレにはこういうことがある。そんな時、ミゲルはただ黙って、チェーザレの邪魔にならないようにじっとしていた。
ミゲルの思考も行動も、すべてチェーザレが中心になっている。幼いころよりそう躾けられた。チェーザレの側付きとして引き取られ、チェーザレの護衛の筆頭となり…。チェーザレがいなければ、ミゲル本人の存在価値などない。チェーザレがいなければ、地面に彼の影がうつることもないのと、同じだ。そんな自分が哀れとも思わない。世の中は、存在価値が認められないまま死んでいくもののほうが、そうでないものより圧倒的に多いのだ。ミゲルも、ボルジア家に引き取られなければ、孤児の異教徒として世間からはじかれて生きていく運命のはずだった。
自分に価値がついただけ、ずっといい。たとえそれが、他人に完全に依存したものだとしても。
そしてミゲルは最近、依存する相手がこの男なら、そんな人生も悪くない、と思い始めていた。
チェーザレは、さらに高みへ、さらに光のある場所へと、自らを引き上げようとする。
光が強くなれば、後ろにできる影もまた濃くなる。
「こんな天気の良い日に、お前と二人きりというのも、悪くないな。」
突然の声に顔を向けると、チェーザレがミゲルを眺めて微笑んでいた。
いつから見ていたんだろう…。
ミゲルは、意識していなかった視線に、少し焦りのようなものを感じた。その動揺を悟られまいと「そうか?」とそっけない返事をした。
「いつもながら愛想がない男だな。」
チェーザレが苦笑する。
「せっかく二人きりなのに。」
「お前に今更愛想よくしても、何の得にもならないだろう。第一、さっきは一人がよかったと言ったぞ。」
ミゲルがチェーザレの言葉の矛盾を指摘すると、上機嫌にしていた顔をふっとしかめた。
「それは、お前がつまらないことを言うからだ。」
「身辺警護に、面白いもつまらないもない。」
「とことん味気のない男だな。」
チェーザレは盛大な溜息をついた。
「せっかく二人きりなのに。」
ミゲルがチェーザレを見ると、チェーザレはむくれた顔で、遠くの景色を眺めていた。
先ほどから、何度も同じ言葉を言っている。
「なにか、言いたいことがあるのか、チェーザレ?」
「なにが。」
「お前、さっきから同じことを言っているぞ。」
チェーザレは再び盛大な溜息をついた。
「そこまで気づいていて、肝心なことには気づかない。まったく、ミゲルは朴念仁だな。」
チェーザレの言った意味はよく分からないが、けなされたことは分かった。
「一体、なんで機嫌をそこねているんだ?」
チェーザレの顔が、ますますしかめっ面になった。
「お前が、あまりに鈍感だからだ。」
「…そりゃ、悪かったな。」
ミゲルは面倒くさそうに謝った。この気難しい男に、自分は十分付き合っていると思うのだが。それでもこのおぼっちゃまには足りないらしい。
そのまま、チェーザレは黙ってしまった。ミゲルも、あえて話そうとはしない。
どれくらい沈黙が流れただろうか。
不意に、チェーザレがミゲルに顔を寄せてきた。
「なんだ?」
「黙って。」