梅花色の幸福な夢
イチゴ味の入った缶は結局、手に持ったままだった。缶を振ればカラカラと乾いた音を立てる。それだけで幸せなのだ、喩え毒でしかなくても。誰もいない公園のベンチに座り、杏里は缶の奏でる音のみを聞いていた。
この中身を一度に食べたら死ぬだろうか、と馬鹿な考えが過ぎる。
しかしそれはそれで幸福なのでは、とも考えてしまう。
気づけば掌にはドロップが乗っていた。じ、とそれを眺める。思い出されるのは白魚の柔肌、温かな鮮血、そして――――
「園原さん」
呼ばれてギクリと肩が揺れた。顔を上げれば息を上げた帝人が立っている。
「探したよ、セルティさんからメールがあって」
間に合って良かった、という彼は走って探してくれたことがありありと伝わってくる。温かな手が、少し冷えた彼女の掌からドロップを奪い取って自身の口へと放り込んだ。
「何が何でもドロップを食べさせないでくれって」
ドロップが消えた、ごめんね、と言葉を綴る唇に目が釘づけになる。
「それで、園原さんに協力して欲しいって」
息が上がった彼は忙しなく呼吸を繰り返し、唇からは呼気に混じって生気が溢れている。食べたドロップのせいかそれは甘く香り、加えて唇の色がドロップを髣髴とさせた。空腹の身に、これより欲求を刺激させるものがあるだろうか。
「僕に出来ることなら協力するよ、何でも言って」
眩暈がした。帝人は何も知らずにただ微笑んでいる。
「……、もし私が帝人君を食べたい、って言ったら」
駄目だ、と自分へ言い聞かせる。寄生蟲として杏里は拒絶される、それだけは避けなければならないのに虹彩に血涙が溜まるような感覚が止まらない。ついにそれは頬を伝い、ぽたん、と缶の上へと落ちた。
「泣かないで、ほら、目が真っ赤になっちゃうか、ら……」
持っていたハンカチで杏里の目元を拭おうと帝人が彼女の眼鏡を外し、それと同時に息を呑んだ。実際に流れた雫は透明だったろうが、杏里の瞳はぼんやりと、しかし確かに赤く発光しているに違いない。彼と視線を合わせればやはり、彼女の虹彩は鮮血で染めたように赤くなっているのが彼の瞳に映っていた。彼には、彼にだけは知られたくなかったのだが、もう遅い。
「え……?」
杏里はベンチから立ち上がり、左掌から右手で日本刀を引きずり出して帝人へ突きつけた。
「帝人君を食べたい、って言ったら、どうしますか」
寄生蟲『罪歌』は刀だ、血液により形容を成し、生気により斬味を成す。そしてその刀で斬りつけることにより『仔』を成すのだが、生気の足りていない杏里の刀ではそれも出来ない。
「人から血気を奪わないと生きられないんです。人から見れば害悪でしかないんです」
刀身に血塊のような赤錆を纏う鈍刀は、ただただ血液によって生かされる杏里自身でもあった。
「私は寄生蟲なんです」
声だけでなく刀を握る手も震え、斬れないのを良いことに帝人の首筋に押しつけた刀身の錆が彼に赤い痕を残しているだろう。しかし涙で滲んだ視界ではそれを確認する術はなく、それでも彼の顔を直視することは出来ず、涙は流れ続けている。これで決定打だと、拒絶されると、思うからこそ刀を退けなかった。それが、弱い力で彼の首から外された。
「泣かないで」
帝人は一歩踏み込んできて、ハンカチで杏里の目元を拭い、それから眼鏡を戻す。急な視界の変化で焦点が合わない。
「人でも、そうでなくても、僕に出来ることなら協力するよ」
ようやく焦点が合ったところで恐る恐る帝人の目を見れば、真夜中の水面のような瞳は月灯を映したように輝いている。
「何を、言っているのか、分かってますか?」
信じられないものを見るような眼で、杏里は微笑む彼を見た。帝人は頷いて、多分、と微笑みを苦笑へ変える。
「……無害じゃないんです」
「そうなの?」
「少なくとも怠くなります」
「献血みたいなものかな?」
「久々過ぎて加減が分かりません」
「お手柔らかに」
「倒れるかも知れません」
「覚悟しておくよ」
拒むなら、この場で拒んで欲しい、と先程までとは異なった感覚が生じる。ここで許容されて後に拒絶するならいっそ、と。じり、と後退する杏里だが帝人は穏やかに笑っているだけで、退きも追いもしない。
「園原さん」
しかし、ただその一言で杏里の視線は彼女を呼ぶ唇に釘付けになる。刀は手を離れ、ザクリと音を立てて地面へと突き刺さった。
白魚の柔肌、
温かな鮮血、
名前を呼ぶ梅花色の唇から零れる生気は――――
「ッ、あ……」
夢と重なる現実に思考は放棄され、ふらりふらりと自分から取った距離を詰める。近づいた帝人の頬を緩く挟み込めば夢と同じく柔い肌、皮膚の薄い唇を指の腹でなぞれば温い血の気配と甘い香り。思わず咽喉が鳴り、自身の渇いた唇を舐め、
「え、そ、園原さ、んン!?」
戸惑う帝人を無視してその呼気に食らいつく。
名前を呼んでくれる彼の唇から零れた生気は、夢と同じくイチゴ味のドロップと同じ味がした。