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静謐の。

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足元が真っ暗で、何も見えない。ただぼんやりと広がる景色に、視認できるものはひとつとしてなく、啓介は目を眇めた。どこまでも続く闇、それが今存在している場所の、全てを形容するにふさわしいただひとつの言葉だった。指先が、冷たく僅かに痺れている。啓介が、ぼんやりと自分の指をみつめた。
「……」
音にならない声が漏れる。真っ暗な闇の中でみつめた指先は、暗闇の中でもわかるほどに──真っ赤な何かで濡れ光っていた。




「……っ!」
はっと息を呑んで、上半身が無意識に起き上がる。それはまるで動物の反射のそれと同じような俊敏さで、啓介は自分の上にあった布団を跳ね除けた。
「夢……かよ」
つぶやいたそれは、誰に聞かせるための言葉でもなく静かな室内でこだました。はあ、と息をひとつ吐き出す。吐き出した息は、まるで啓介をあざ笑うかのように静寂の中へと溶けていった。部屋の中は、真夜中のひそやかな息遣いをそのままに残し、カーテンの向こうからはまだ濃紺の闇だけが降り注いでいる。夜という時間が続いていることを、啓介は時計の中にある三という数字で知った。
啓介がのろのろとした動作でナイトボードの上をまさぐる。お気に入りのシガレットケースをつかんで、乱暴な手つきで一本を抜き出した。煙草を口に銜え、慣れた手つきで火をつける。外で煙草を吸うことの多い啓介は、無意識のうちに火を囲うようにして片手を添えた。乱暴に一口目を灰に押し込める。急激な濁った空気は、啓介の灰を汚く犯し、内側をこじ開けるように鼻奥を苦い味が貫く。煙草をすい始めてからかなりの年月が経つけれど、この一口目にはいつも慣れない。外で吸う時はおくびにも出さないけれど、啓介は僅かに眉を顰めた。
薄い闇の中で、ゆらゆらと僅かな灯りが眼前をちらつく。闇に包まれ、静かではあるけれども、ここはあの場所とは違う。音があり、光がある。啓介は自らにいい聞かせるように心の内で呟いた。うっすらと額に滲む汗を、気づかない振りをしたままで振り払う。紫煙が細く長く昇っていく。
思考を打ち消すように、啓介が立ち上がった。乱暴に灰皿の墨でまだ長い煙草をもみ消して、ベッドから降りる。冬の足音はこの部屋の中をじっとりと侵食していて、フローリングに置いた足がひんやりとしたその感触に、啓介はソファに脱ぎ散らかしたカーディガンを適当に羽織った。体調管理もドライバーとしての大事な役目だ、と言った男の顔が脳裏にちらつく。啓介はそっと自室のドアを開けた。
高橋家は広い。それは啓介が生まれたときからそうであり、これからも変わらない事実だ。啓介にとってそれは特別なことではなく、ただそうであるという事実以外の何者でもない。それに反発した時期もあったが、いまではそのことをただ「事実」として認めることができる。そんな廊下をゆっくりと歩きながら、啓介は渡り廊下からバルコニーへと出た。ガラス戸を開いた瞬間に、冷たい風が啓介の体にまとわり付く。まるで外に出ることを警告するような冷たさに、けれど啓介はそのまま足を進めた。
「つめてっ」
思わず声が漏れて、あわてて両手で口を押さえる。こんなところで独り言を言ったところで家族がおきてくることはないが、それは恐らく習性だろう。啓介はカーディガンよりも靴下を選択しなかった自分のミスに内心で舌打ちしながらも、バルコニーの中央へと足を進めた。外は暗い。けれどそれは闇ではなかった。遠くで月が、まるで他人事のように煌いている。啓介はぼんやりとその光を見つめた。
こうして夜の更けた時間に、冷たい風の中で、月の光に、そして夢の中で、思い出すのはただ一人の男のことばかり。啓介の思考の全てを掌握し、もてあそび、そして真摯に受け止める男の顔を、寸分狂うことなく啓介は夢想することができる。脳裏に描いた、少しだけ自分と似た面立ちの、けれど決して同質ではない、同位になどなれることない男の姿に、啓介はひとつだけ息を漏らした。
兄は、全てにおいて他者を圧倒していた。容姿も、才能も、知性も、努力も、何もかもを。啓介にはない全てを持つ兄に対して、最初に感じたものは尊敬だった。そしてそれは知らぬ間に嫉妬という感情へと変化し、啓介の全てを侵食していった。啓介のもっとも醜く、汚い部分を涼介は意図も簡単に触れ、掴み、白日の下へと無神経に晒させる。啓介の他愛もない自尊や矜持など、涼介という男の前では何の役にも立ちはせず、啓介は涼介の前にただひたすら無防備に立ちすくむことしかできないのだ。そして、啓介は涼介に対する尊敬も嫉妬も畏怖も兄弟の情も異常なまでの執着心も、全てを内包する術を、ある日唐突に手にいれた。それはまるで、落雷にあったような衝撃だったと、今でも啓介はそう思う。それら全ての言葉を内包する単語の陳腐さに、啓介は唇をゆがめることしかできなかった。
風が啓介の頬を撫でていく。庭の木々が僅かに揺れ、白い月は微動だにしない。兄を月だと形容する人間は多い。月のような兄と、太陽のような弟。それは何度も何度も大人や周囲から聞かされた賞賛の比喩表現だ。けれど、それを聞くたびに啓介は周囲の人間の見る目のなさに心底可笑しくなってしまう。誰が太陽であるだろうか、誰が月だ。そう叫びだしてしまいたい欲求を、啓介はいつも寸でのところで堪え、押し込み、喉の奥へと下す。ゆっくりと食物を咀嚼するように。兄という光がなければ輝くことなどできるはずがないのだ。
バルコニーを見下ろせば、目に入るのは大きなガレージの一角だった。ガレージの屋根は何の変哲もない。けれど啓介の目には、その向こう側に眠る涼介の愛車の姿が手に取るように見えた。
指先が、冷たくなった手すりを這う。目に入る白い指は、けれども啓介には真っ赤に染まってみえた。
「啓介、こんな時間に何をしてるんだ?」
不意に後ろから聞こえた声に、啓介が驚いて振り返った。振り返る前から、全身がその声に反応していた。
「兄貴……」
「そんな格好だと風邪引くぞ」
スウェットにシャツにカーディガンといういでたちの啓介に対して、バルコニーの入り口に立つ涼介はきちんとした身なりをしていた。いつもと変わらないスラックスに襟付きのシャツだ。夕食のときに見た服と同じだということを思い出し、兄がまだ眠っていなかったことに気がついた。
「兄貴こそ、ちゃんと睡眠とらねェと……」
啓介の言葉が説教ではなく不安の色を帯びていることに気付いたらしい涼介が、僅かに口元を緩めた。
「心配かけてるな、すまない」
啓介が、涼介の言葉に首を大きく横に振った。こうして僅かな表情の緩急だけで、これほどまでに心のうちが騒ぎ出す。
「兄貴が謝ることじゃねぇよ、忙しいんだろ?」
「まあな……」
涼介はそういったきり次の言葉を発することはなく、啓介もそれ以上の言葉を求めはしなかった。
「お前も早く寝ろよ」
涼介が、啓介にそう告げる。啓介が頷くと、満足したように一瞬啓介をみつめてから、涼介はその場を立ち去った。ほんの数十秒のことだった。それでも啓介の感情はかき乱され、死にたいくらいに狂いだす。
作品名:静謐の。 作家名:あゆみ