8月27日、サンパウロにて
最後の全国大会も入試も終わって晴れて自由の身になったら、真っ先にやろうと思っていたことがある。
サッカーは好きだったし、マネージャー業も楽しく、誇りを持ってやっていたけれど、時々ふと思うことがあった。マネージャーにならずクラスの他の娘達みたいにアルバイトに精を出していれば、もっと早く翼くんに会いに行けたんだな、って。それでも『マネージャーを辞める』なんて考えには及ばず3年間。自分で言うのも何だけど、私はよく頑張ったし、よく我慢したと思う。
だから、最後の入試が終わってすぐの2月、近所のスーパーでアルバイトを始めた。卒業までの間も、卒業して短大に入ってからも、入れられる限りシフトに入れてもらって今、8月。お小遣いとお年玉の貯金も足して、目の前にはサンパウロとの往復チケットと10万円、それからお母さんがわざわざ買ってくれた淡いピンクのスーツケース。
明日…明後日? とにかく、いよいよやっと、3年ぶりに翼くんに会えるのだ。クッションを抱えてそれらを見つめていると勝手に顔がほころんでくる。駄目だ。今日は眠れなそう。
2週間前、国際電話で『遊びに行くね』と告げた私に翼くんは、
『じゃあ、うちに泊まるといいよ。ホテル代も浮くし』
と、明るく言った。私の顔は真っ赤になったけど、翼くんのことだから他意はないのよね、きっと。
恐る恐るお母さんに言ってみれば、変な笑顔を浮かべて承諾してくれた。…大丈夫、よね?
サンパウロは抜けるような青空で、ブラジルの暦ならまだ春先だというのに蒸し暑かった。額の汗を拭いながら外に出ると、生ぬるい風がおろしたてのスリップドレスの裾をはためかせる。淡いモスグリーンとベージュの、裾が幾重かに重なりフリルのように揺れる女の子らしいデザイン。やっぱり、これにして正解だったな。スーツケースをゴロゴロと引きずりながら、翼くんに言われていたタクシー乗り場の近くを目指す。
「早苗ちゃん!」
太陽の光を避けるように手で庇を作って声の方を向けば、会いたくてたまらなかった笑顔がそこにあった。
「翼くん!」
翼くんが駆け寄ってくる。背、ずいぶん伸びたのね。顔つきも、あの頃から想像できないくらい、精悍になった。
「久しぶり!!」
「久し…え!? きゃあっ!!」
すごくすごく嬉しそうな顔で駆け寄った翼くんは何のためらいもなく私に抱きついた。そして、額といわず頬といわず、ところかまわずキスの嵐。
「ち、ちょっと、ちょっと、翼くん!!」
「え…? あ、ごめんごめん。嬉しかったものだから、つい、ね」
真っ赤になって制する私にやっと気づいて離れた翼くんは、ハハハと笑って頭を掻いた。翼くんって、こんなに積極的だったかしら。ビックリしている私をよそに、翼くんはタクシーを止め、私の荷物を積むとニッコリ笑って「どうぞ」とシートを指した。
「疲れたでしょ? とりあえず俺のアパートに向かうから」
「うん。12時間座りっぱなしだもん。流石に体痛いよ」
目でサンパウロの流れていく街並を追いながら笑顔で答える。南葛の小さい町とは全然違う、洗練された風景がそこにある。貧富の差も激しいのかもしれない、小さな子供達が路地へと走り抜けるけれど、その背には近代的なビルが高く高くそびえている。この街で3年間、翼くんは一人で頑張ってきたのだ。翼くんは泣き言とか絶対に言わない人だけど、大変じゃなかったわけがない。色々…嫌なこともあったんだろうな。
そんな感慨に耽っていると急に車が止まった。翼くんは「着いたよ」と私に日本語で言い、それから運転手さんにポルトガル語で何か言い、お金を渡して車から降りた。
翼くんのアパートはこちらでは小さいんだろうけど、日本の家を見慣れた私からすれば充分大きな、煉瓦造りの古いけど清潔な建物だった。中に入ると広めの1DKで、きれいに片付いている。部屋中サッカーだらけなのは日本にいた頃と変わってなくて、何だかおかしかった。私の荷物を奥の部屋に置いて戻ってくると窓を開ける。すると少しだけ涼しい風が入ってくる。
翼くんが私を抱き寄せた。小さく「本当に久しぶり」と言って唇を寄せる。触れるような、軽いキス。15歳の時以来、久しぶりの翼くんのキス。
「会いたかった」
鼻の奥がツンとして、泣きたくなるのを堪えながら私も小さく呟くと、翼くんは微笑んで私をより近くに引き寄せる。私は安心したようにその逞しく成長した体に身をあずける。
それから、外の暑さも喧燥もまるで関係ないように、しばらく二人でそうしていた。夕暮れが近付いて、翼くんが「どうする? 食事、しに行く?」と聞いた。私は、
「翼くんの料理、食べてみたいな」
いたずらっぽく笑って答える。
「えっ、俺の?」
翼くんは困ったような顔をして、それから「いいけど、味は保証しないよ」と笑って言った。
手伝おうとしたら恥ずかしいのか照れたように「お客さんは座ってなさい」と言って、翼くんは一人、台所に立った。背中を向けて冷蔵庫を漁ったり、包丁と格闘したり。あんまり自炊してないみたいね。その背中が新鮮でおかしくて、クスクス笑いながら、そういえばお土産があったんだ、と奥の部屋に向かう。
「……」
ここはブラジルで、翼くんは一人暮らし。だから、ベッドが大きいことも、そのベッドがひとつしかないことも当り前。当り前…なんだけど。
(…考え過ぎる私がやらしいのかしら)
顔が自然に火照るのがわかって、慌ててお土産を掴むと部屋を出た。パタンとドアを閉め、息をひとつ吐くと、見なかったことにする。
「翼くん、これ、お土産」
何だか大きな肉をグリルに入れる翼くんに声をかける。翼くんは手を少し洗って私の元に来ると紙袋の中を覗きこんだ。今年採れたての新茶と田舎のおじいちゃんが作った味噌、お米。それから日本のサッカー雑誌とか色々。
「ありがとう! うわー、嬉しいものばっかりだ」
早速、雑誌をめくりながら翼くんは言った。日本の皆の活躍を見ながら、本当に嬉しそう。
晩御飯には、雑誌がいけなかったのか、少し焦げた牛肉のグリルと、レモンと塩とコショウ、それにニンニクを混ぜたドレッシングをかけた色とりどりの野菜のサラダ。それから、隣のおばさんにもらったという豆のスープ、チーズの入った食感のいいパンが食卓に並んだ。食前にチームの仲間にもらったという赤ワイン。
「それじゃあ、3年ぶりの再会を祝して、乾杯」
「乾杯」
カチンと不揃いな厚手のグラスを重ねる。コクリ、と一口飲むと、口の中に濃厚なブドウの渋味が広がった。お酒にあまり慣れていない私がむせていると、目の前で翼くんはおいしそうにグラスを空けた。
「翼くん…お酒強いんだ」
「え? あ、うん。こっちに来てから飲ませられること、多かったから」
ビックリして聞く私に翼くんはこともなげに答える。そうよね。プロでやっているんだし、色々あるんだわ。きっと。でも、一応まだ『未成年』だって自覚、あるのかしら。
「このパン知ってる。『ポンテゲージョ』っていうのよね? 日本でも流行ったわ」
私がパンを口に運びながら言うと翼くんは嬉しそうな顔をした。
「へえ。日本でも食べられるんだ」
サッカーは好きだったし、マネージャー業も楽しく、誇りを持ってやっていたけれど、時々ふと思うことがあった。マネージャーにならずクラスの他の娘達みたいにアルバイトに精を出していれば、もっと早く翼くんに会いに行けたんだな、って。それでも『マネージャーを辞める』なんて考えには及ばず3年間。自分で言うのも何だけど、私はよく頑張ったし、よく我慢したと思う。
だから、最後の入試が終わってすぐの2月、近所のスーパーでアルバイトを始めた。卒業までの間も、卒業して短大に入ってからも、入れられる限りシフトに入れてもらって今、8月。お小遣いとお年玉の貯金も足して、目の前にはサンパウロとの往復チケットと10万円、それからお母さんがわざわざ買ってくれた淡いピンクのスーツケース。
明日…明後日? とにかく、いよいよやっと、3年ぶりに翼くんに会えるのだ。クッションを抱えてそれらを見つめていると勝手に顔がほころんでくる。駄目だ。今日は眠れなそう。
2週間前、国際電話で『遊びに行くね』と告げた私に翼くんは、
『じゃあ、うちに泊まるといいよ。ホテル代も浮くし』
と、明るく言った。私の顔は真っ赤になったけど、翼くんのことだから他意はないのよね、きっと。
恐る恐るお母さんに言ってみれば、変な笑顔を浮かべて承諾してくれた。…大丈夫、よね?
サンパウロは抜けるような青空で、ブラジルの暦ならまだ春先だというのに蒸し暑かった。額の汗を拭いながら外に出ると、生ぬるい風がおろしたてのスリップドレスの裾をはためかせる。淡いモスグリーンとベージュの、裾が幾重かに重なりフリルのように揺れる女の子らしいデザイン。やっぱり、これにして正解だったな。スーツケースをゴロゴロと引きずりながら、翼くんに言われていたタクシー乗り場の近くを目指す。
「早苗ちゃん!」
太陽の光を避けるように手で庇を作って声の方を向けば、会いたくてたまらなかった笑顔がそこにあった。
「翼くん!」
翼くんが駆け寄ってくる。背、ずいぶん伸びたのね。顔つきも、あの頃から想像できないくらい、精悍になった。
「久しぶり!!」
「久し…え!? きゃあっ!!」
すごくすごく嬉しそうな顔で駆け寄った翼くんは何のためらいもなく私に抱きついた。そして、額といわず頬といわず、ところかまわずキスの嵐。
「ち、ちょっと、ちょっと、翼くん!!」
「え…? あ、ごめんごめん。嬉しかったものだから、つい、ね」
真っ赤になって制する私にやっと気づいて離れた翼くんは、ハハハと笑って頭を掻いた。翼くんって、こんなに積極的だったかしら。ビックリしている私をよそに、翼くんはタクシーを止め、私の荷物を積むとニッコリ笑って「どうぞ」とシートを指した。
「疲れたでしょ? とりあえず俺のアパートに向かうから」
「うん。12時間座りっぱなしだもん。流石に体痛いよ」
目でサンパウロの流れていく街並を追いながら笑顔で答える。南葛の小さい町とは全然違う、洗練された風景がそこにある。貧富の差も激しいのかもしれない、小さな子供達が路地へと走り抜けるけれど、その背には近代的なビルが高く高くそびえている。この街で3年間、翼くんは一人で頑張ってきたのだ。翼くんは泣き言とか絶対に言わない人だけど、大変じゃなかったわけがない。色々…嫌なこともあったんだろうな。
そんな感慨に耽っていると急に車が止まった。翼くんは「着いたよ」と私に日本語で言い、それから運転手さんにポルトガル語で何か言い、お金を渡して車から降りた。
翼くんのアパートはこちらでは小さいんだろうけど、日本の家を見慣れた私からすれば充分大きな、煉瓦造りの古いけど清潔な建物だった。中に入ると広めの1DKで、きれいに片付いている。部屋中サッカーだらけなのは日本にいた頃と変わってなくて、何だかおかしかった。私の荷物を奥の部屋に置いて戻ってくると窓を開ける。すると少しだけ涼しい風が入ってくる。
翼くんが私を抱き寄せた。小さく「本当に久しぶり」と言って唇を寄せる。触れるような、軽いキス。15歳の時以来、久しぶりの翼くんのキス。
「会いたかった」
鼻の奥がツンとして、泣きたくなるのを堪えながら私も小さく呟くと、翼くんは微笑んで私をより近くに引き寄せる。私は安心したようにその逞しく成長した体に身をあずける。
それから、外の暑さも喧燥もまるで関係ないように、しばらく二人でそうしていた。夕暮れが近付いて、翼くんが「どうする? 食事、しに行く?」と聞いた。私は、
「翼くんの料理、食べてみたいな」
いたずらっぽく笑って答える。
「えっ、俺の?」
翼くんは困ったような顔をして、それから「いいけど、味は保証しないよ」と笑って言った。
手伝おうとしたら恥ずかしいのか照れたように「お客さんは座ってなさい」と言って、翼くんは一人、台所に立った。背中を向けて冷蔵庫を漁ったり、包丁と格闘したり。あんまり自炊してないみたいね。その背中が新鮮でおかしくて、クスクス笑いながら、そういえばお土産があったんだ、と奥の部屋に向かう。
「……」
ここはブラジルで、翼くんは一人暮らし。だから、ベッドが大きいことも、そのベッドがひとつしかないことも当り前。当り前…なんだけど。
(…考え過ぎる私がやらしいのかしら)
顔が自然に火照るのがわかって、慌ててお土産を掴むと部屋を出た。パタンとドアを閉め、息をひとつ吐くと、見なかったことにする。
「翼くん、これ、お土産」
何だか大きな肉をグリルに入れる翼くんに声をかける。翼くんは手を少し洗って私の元に来ると紙袋の中を覗きこんだ。今年採れたての新茶と田舎のおじいちゃんが作った味噌、お米。それから日本のサッカー雑誌とか色々。
「ありがとう! うわー、嬉しいものばっかりだ」
早速、雑誌をめくりながら翼くんは言った。日本の皆の活躍を見ながら、本当に嬉しそう。
晩御飯には、雑誌がいけなかったのか、少し焦げた牛肉のグリルと、レモンと塩とコショウ、それにニンニクを混ぜたドレッシングをかけた色とりどりの野菜のサラダ。それから、隣のおばさんにもらったという豆のスープ、チーズの入った食感のいいパンが食卓に並んだ。食前にチームの仲間にもらったという赤ワイン。
「それじゃあ、3年ぶりの再会を祝して、乾杯」
「乾杯」
カチンと不揃いな厚手のグラスを重ねる。コクリ、と一口飲むと、口の中に濃厚なブドウの渋味が広がった。お酒にあまり慣れていない私がむせていると、目の前で翼くんはおいしそうにグラスを空けた。
「翼くん…お酒強いんだ」
「え? あ、うん。こっちに来てから飲ませられること、多かったから」
ビックリして聞く私に翼くんはこともなげに答える。そうよね。プロでやっているんだし、色々あるんだわ。きっと。でも、一応まだ『未成年』だって自覚、あるのかしら。
「このパン知ってる。『ポンテゲージョ』っていうのよね? 日本でも流行ったわ」
私がパンを口に運びながら言うと翼くんは嬉しそうな顔をした。
「へえ。日本でも食べられるんだ」
作品名:8月27日、サンパウロにて 作家名:坂本 晶