児戯にひとしき
徳川軍が豊臣軍の傘下となり、季節がひとつ過ぎるほどの時が経った。
その日も互いの理想の在り方について口論に近しいやり取りをした家康と三成は、いつもと同じく平行線のまま話を断ち切った。顔を背けて憎々しげに去っていく後ろ姿を眺めながら、どれほど言葉を連ねても響かない男の姿勢に思わず溜息をつく。
と、その息の吐き終わらぬうちに、唐突に後ろから声がかかった。
「相変わらずだねえ、家康君」
瞬間、身体が強張った。それを悟られまいとして、家康はあえてゆっくりと振り返る。その視線の先では、豊臣に君臨する覇王の友人であり、天下を掌握する要である豊臣の軍師が見透かすような眼をしてこちらを見つめていた。
家康は、己が三成に向ける言葉が秀吉へすべてを捧げることへの疑問であると、しかと認識している。その言動を、半兵衛や秀吉に咎められたことはなかったが、それは家康が周囲を気にかけながら三成へ向ける話を変えているからでもあった。こんな風に、まさにその現場を見咎められることはなかったのだ。
ただそれでも、家康と三成の幾度にも及ぶ激突を聞いていないはずがない。
その上で悠然としている豊臣の頂点二人の態度は、家康が何を言おうとも三成の信仰に近い在り方はかけらも崩せないと確信しているようで、それがまた家康には複雑だったのだが。
「……半兵衛殿」
一瞬、空とぼけようかとも思ったが、自分を見据える眼の色の深さに諦める。家康は慎重に名を呼ぶに留めた。対して、
「君の言うことはわからないでもないけれど」
半兵衛は鷹揚に頷きながら、言った。
「それもまた無数にある正義のうちのひとつに過ぎない。少なくともそれは、僕らの掲げるものには合致しないね。
君にとっては残念ながら、絆なんて眼に見えない曖昧なものを賛美するような理想では三成君は変えられないよ」
家康は苦心して冷静な顔を作り、反論の言葉を呑み込んだ。あくまで豊臣の従軍として迎えられている身で、下手なことを口にすれば責は全軍に及ぶ。
代わりに別のことを口にした。
「――三成は、秀吉公を心底信奉しているのだな」
そう言うと、ふふ、と軍師は軽やかにわらった。戦局図を見ながら、満足に仕上がった軍略の出来に、会心の笑みを零す時と同じ表情で。
「……よほどの事があったのだろうな。一体いつ、あの男は豊臣へ?ワシは、戦の少し前まであんな男が貴方がたの――この、軍にいるなど知らなかった。或る時その話を聞き、そしてすぐに戦場で見たのだ。まるで鬼神のような将が突然現れたと知って、心底驚いた…。
秀吉公が見出したのだとも聞いた。それまで三成は一体、どこにいたんだ?」
そう聞くと、半兵衛は整った秀麗な顔に少しの驚きを乗せて呟いた。
「本当に、君はずいぶんと三成君を気にかけるんだねえ。君は不特定多数に眼を向けて、個人には興味を示さないほうだと思っていたけれど」
自分自身をそんな風に言い表され、思わぬ返しに戸惑うような表情をみせた家康を見つめ、何を思ったか。
軍師はふと真剣な面持ちをして言った。
「まあ、人前に出すには時間が必要な子だったからね」
それが誰を指しているかは明白だ。不思議な言い回しだった。思わず続きを問うような視線を向けた家康へ向けて、彼はそっと囁いた。
「初めて見たころの三成君はね。人間じゃあなかった」
家康は、その意味をとらえきれずに怪訝な眼で半兵衛を見返した。
そして、弧を描いた唇がく、と笑みを漏らすのを見た。なぜかそれだけで、ぞっとするような寒気が背筋を這う。そんな家康の様子に気づかぬわけもあるまいに、半兵衛は殊更ゆったりと語り始めた。
「……間引きという言葉が、あるだろう?」
美しい言葉ばかりが似合うような、艶のある唇から飛び出したのは不穏な言葉だ。家康が知らぬ間に息を殺して耳を傾けると、彼は大仰に憂鬱な顔をして言葉を紡いだ。
「かなしいことだよ。たとえば貧しい農村で、生まれて数年も経たないまだ小さい子供がね、口減らしのために奉公に出たり、あるいは棄てられたり、ついには殺されてしまったり―――
家康君、ちょっと想像してみてごらん。決して人が踏み入らないような暗く深い山の中で、物心もつかないひとりの幼い子供が泣いている。かつてはやさしく、いとおしむように頭を撫でてくれた手を泣き叫びながら呼んでいる。けれどその手の持ち主は決して帰ってきはしないんだ。もう二度と、ね。やがてあたりは暗くなり、人里離れた険しい山の中は月の光さえ届かないつめたい闇に包まれるだろう。それまで泣いていた子供は肌を刺す寒さと心細さに歯を鳴らす。そうしてあまりの孤独にとうとう泣き声をあげることすら出来なくなって初めて気がつくんだよ。そこには自分以外の生き物がたくさんいることに。赤く光る獣の眼が自分を見つめていることに。荒い息使いが肌を這うほど間近へ迫っていることに。
ねえ、どうやったってこんないたいけな子供が、そんな山中で何年も生きていられるはずがないだろう?
じゃあ彼は一体、そんな中でどうやって生きてきたんだろうねえ。僕はそれがとても興味深かったから、出会った時には唸ることしかできないような、秀吉を噛んだ悪い子だったけれど、連れて帰ってきてみたんだよ」
軍師はこの上なく優しげに微笑んだ。傍らで顔色を失くしている家康など気にも留めない様子で。
「そうしたら、みるみるうちに人の言葉を覚えて仕草を身につけて人の世の仕組みを理解して――人の心の機微はいまだにわからないままだけれどね、とにかく僕も驚くほど聡明だった。そして、僕と秀吉に心底懐いて呉れた。あれは、刷り込みの一種なのかもしれないな。
彼はとても良い子になったよ。
噛みつき癖は今も少し残っているんだけどね」
そう言ったきり軍師が口を閉じると、つめたい沈黙が降りた。
予想もしない壮絶な話をさらりと告げられて、家康には返す言葉もない。そんな家康の様子をしばらくじっと見つめたのちに、半兵衛は不意にがらりと雰囲気を一変させた。それまでの密やかさを取り払って、あはは、と珍しくも声に出して笑う。
「―――嘘だよ。
嘘だよ、君、将たる者がそんなに騙されやすくちゃ駄目じゃないか」
呆気にとられる家康を尻目に、半兵衛は困ったものだと言いたげに首を傾げた。
「そんなわけはないだろう。三成君は秀吉が或る寺で見つけてきたのさ。物凄く気が利く子だから気にいったって言ってね。疑わしいなら調べてごらん。まったく、そんな青い顔をして!」
彼はそう言ってあっさりと寺の名前を告げた。
そんな馬鹿なと思いながらもその後、家康は密かに裏を取らずにはいられなかった。そして確かに半兵衛が告げたその場所にあの男が在籍していた痕跡を見つけ、どっと脱力しながらも安堵した。
聡明な軍師の悪ふざけは、思った以上に性質が悪い。思わず苦笑いを浮かべ、家康は小さくため息をついた。
その日も互いの理想の在り方について口論に近しいやり取りをした家康と三成は、いつもと同じく平行線のまま話を断ち切った。顔を背けて憎々しげに去っていく後ろ姿を眺めながら、どれほど言葉を連ねても響かない男の姿勢に思わず溜息をつく。
と、その息の吐き終わらぬうちに、唐突に後ろから声がかかった。
「相変わらずだねえ、家康君」
瞬間、身体が強張った。それを悟られまいとして、家康はあえてゆっくりと振り返る。その視線の先では、豊臣に君臨する覇王の友人であり、天下を掌握する要である豊臣の軍師が見透かすような眼をしてこちらを見つめていた。
家康は、己が三成に向ける言葉が秀吉へすべてを捧げることへの疑問であると、しかと認識している。その言動を、半兵衛や秀吉に咎められたことはなかったが、それは家康が周囲を気にかけながら三成へ向ける話を変えているからでもあった。こんな風に、まさにその現場を見咎められることはなかったのだ。
ただそれでも、家康と三成の幾度にも及ぶ激突を聞いていないはずがない。
その上で悠然としている豊臣の頂点二人の態度は、家康が何を言おうとも三成の信仰に近い在り方はかけらも崩せないと確信しているようで、それがまた家康には複雑だったのだが。
「……半兵衛殿」
一瞬、空とぼけようかとも思ったが、自分を見据える眼の色の深さに諦める。家康は慎重に名を呼ぶに留めた。対して、
「君の言うことはわからないでもないけれど」
半兵衛は鷹揚に頷きながら、言った。
「それもまた無数にある正義のうちのひとつに過ぎない。少なくともそれは、僕らの掲げるものには合致しないね。
君にとっては残念ながら、絆なんて眼に見えない曖昧なものを賛美するような理想では三成君は変えられないよ」
家康は苦心して冷静な顔を作り、反論の言葉を呑み込んだ。あくまで豊臣の従軍として迎えられている身で、下手なことを口にすれば責は全軍に及ぶ。
代わりに別のことを口にした。
「――三成は、秀吉公を心底信奉しているのだな」
そう言うと、ふふ、と軍師は軽やかにわらった。戦局図を見ながら、満足に仕上がった軍略の出来に、会心の笑みを零す時と同じ表情で。
「……よほどの事があったのだろうな。一体いつ、あの男は豊臣へ?ワシは、戦の少し前まであんな男が貴方がたの――この、軍にいるなど知らなかった。或る時その話を聞き、そしてすぐに戦場で見たのだ。まるで鬼神のような将が突然現れたと知って、心底驚いた…。
秀吉公が見出したのだとも聞いた。それまで三成は一体、どこにいたんだ?」
そう聞くと、半兵衛は整った秀麗な顔に少しの驚きを乗せて呟いた。
「本当に、君はずいぶんと三成君を気にかけるんだねえ。君は不特定多数に眼を向けて、個人には興味を示さないほうだと思っていたけれど」
自分自身をそんな風に言い表され、思わぬ返しに戸惑うような表情をみせた家康を見つめ、何を思ったか。
軍師はふと真剣な面持ちをして言った。
「まあ、人前に出すには時間が必要な子だったからね」
それが誰を指しているかは明白だ。不思議な言い回しだった。思わず続きを問うような視線を向けた家康へ向けて、彼はそっと囁いた。
「初めて見たころの三成君はね。人間じゃあなかった」
家康は、その意味をとらえきれずに怪訝な眼で半兵衛を見返した。
そして、弧を描いた唇がく、と笑みを漏らすのを見た。なぜかそれだけで、ぞっとするような寒気が背筋を這う。そんな家康の様子に気づかぬわけもあるまいに、半兵衛は殊更ゆったりと語り始めた。
「……間引きという言葉が、あるだろう?」
美しい言葉ばかりが似合うような、艶のある唇から飛び出したのは不穏な言葉だ。家康が知らぬ間に息を殺して耳を傾けると、彼は大仰に憂鬱な顔をして言葉を紡いだ。
「かなしいことだよ。たとえば貧しい農村で、生まれて数年も経たないまだ小さい子供がね、口減らしのために奉公に出たり、あるいは棄てられたり、ついには殺されてしまったり―――
家康君、ちょっと想像してみてごらん。決して人が踏み入らないような暗く深い山の中で、物心もつかないひとりの幼い子供が泣いている。かつてはやさしく、いとおしむように頭を撫でてくれた手を泣き叫びながら呼んでいる。けれどその手の持ち主は決して帰ってきはしないんだ。もう二度と、ね。やがてあたりは暗くなり、人里離れた険しい山の中は月の光さえ届かないつめたい闇に包まれるだろう。それまで泣いていた子供は肌を刺す寒さと心細さに歯を鳴らす。そうしてあまりの孤独にとうとう泣き声をあげることすら出来なくなって初めて気がつくんだよ。そこには自分以外の生き物がたくさんいることに。赤く光る獣の眼が自分を見つめていることに。荒い息使いが肌を這うほど間近へ迫っていることに。
ねえ、どうやったってこんないたいけな子供が、そんな山中で何年も生きていられるはずがないだろう?
じゃあ彼は一体、そんな中でどうやって生きてきたんだろうねえ。僕はそれがとても興味深かったから、出会った時には唸ることしかできないような、秀吉を噛んだ悪い子だったけれど、連れて帰ってきてみたんだよ」
軍師はこの上なく優しげに微笑んだ。傍らで顔色を失くしている家康など気にも留めない様子で。
「そうしたら、みるみるうちに人の言葉を覚えて仕草を身につけて人の世の仕組みを理解して――人の心の機微はいまだにわからないままだけれどね、とにかく僕も驚くほど聡明だった。そして、僕と秀吉に心底懐いて呉れた。あれは、刷り込みの一種なのかもしれないな。
彼はとても良い子になったよ。
噛みつき癖は今も少し残っているんだけどね」
そう言ったきり軍師が口を閉じると、つめたい沈黙が降りた。
予想もしない壮絶な話をさらりと告げられて、家康には返す言葉もない。そんな家康の様子をしばらくじっと見つめたのちに、半兵衛は不意にがらりと雰囲気を一変させた。それまでの密やかさを取り払って、あはは、と珍しくも声に出して笑う。
「―――嘘だよ。
嘘だよ、君、将たる者がそんなに騙されやすくちゃ駄目じゃないか」
呆気にとられる家康を尻目に、半兵衛は困ったものだと言いたげに首を傾げた。
「そんなわけはないだろう。三成君は秀吉が或る寺で見つけてきたのさ。物凄く気が利く子だから気にいったって言ってね。疑わしいなら調べてごらん。まったく、そんな青い顔をして!」
彼はそう言ってあっさりと寺の名前を告げた。
そんな馬鹿なと思いながらもその後、家康は密かに裏を取らずにはいられなかった。そして確かに半兵衛が告げたその場所にあの男が在籍していた痕跡を見つけ、どっと脱力しながらも安堵した。
聡明な軍師の悪ふざけは、思った以上に性質が悪い。思わず苦笑いを浮かべ、家康は小さくため息をついた。