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ちょっとだけ不思議な感じがしたのはどうやらオレだけじゃなかったようで、待ち合わせに少し遅れてやってきた夏でもスーツ姿の花井は照れ臭そうな気まずそうな、どこか困ったような顔を見せる。
「わり」
「んーん。オレも遅刻だったから」
相変わらずの長身を折りながら窮屈そうに戸を潜った花井は、メニューに目を通す事無くビールで、と後ろでおしぼりを手に待っている店員に声を掛けてから、オレの前に飲み物が置かれていない事に気付き栄口は? と尋ねてきた。
「じゃあビール二つで」
かしこまりました、と愛想良く微笑んだ女の子が静かに戸を閉めると、個室の中に耳にした事のあるジャズが響く。
今の子、可愛かったなー。左手でネクタイを緩めつつ、何食うかな……とページを繰っている花井に同意を求めかけて、やめた。
「最近夜になっても全然涼しくならねーな」
「だなー」
「お前ら、いつもこんな小洒落た店で飲んでんの?」
「まさか。弟のバイト先なんだよ」
ら、と当たり前のように複数系にされた事を複雑に思いつつ、今朝貰ってきたばかりの割引券を財布から取り出すと花井は驚いた顔と共に、げ、と変な声を出し、盛大に溜息を吐く。
「どうした?」
「あんなにちっこかったのが居酒屋でバイトするようになったのか……。オレ達も歳取る訳だよなー」
「他人の弟より、自分の可愛い妹達の成長見てればわかるだろー。一人結婚するんだって?」
「何でそれを……」
「阿部ん家のおばさんから聞いた」
まだ全部筒抜けなのかよ、と花井が頭を抱えた所でお待たせ致しました、の言葉と共に引き戸が開かれ、さっきまでフリーザーに入っていたのが一目でわかるぐらいよく冷えたジョッキとお通しがテーブルに置かれる。それぞれ好きな物を二、三品ずつ注文し、店員が下がったのを確認してから取っ手を握った。
「お疲れ、じゃなくておめでとう、か?」
「やめてくれ。オレは認めない」
あの頃はせっかく応援に来てくれた妹達に対していつも素っ気なく接していたくせに、同じ人間とはとても思えない発言が飛び出して思わず吹き出してしまう。
「アハハハハハハハ! は、花井って意外にシスコンだったんだなあ!」
「うるせー! お前の姉ちゃんが結婚する時にオレも笑い飛ばしてやるよ……」
当分無いと思うよ、と一方的にジョッキをぶつけてビールを煽る。暑さで渇き切っていた喉に、炭酸が染み渡って行くのがわかった。
花井が本題を切り出したのは、さっきの可愛い子が申し訳なさそうに本日、大変込み合っておりまして……と三十分後に退店して欲しい旨を伝えに来た後だった。たわいもない近況報告ばかりでそこそこ食事は進んでいたが、ラストオーダーと言われると何か注文しなくてはいけない気がして黒ごまアイス、と告げた途端あからさまにうんざりした表情をされる。
「いいだろー。別にアイス食ったって」
「何も言ってねーだろ。あ、あと軟骨の唐揚げで」
ほろ酔いサラリーマンのやり取りのどこがおかしかったのかは知らないが、クスクスと控えめに堪え切れなかった笑いを零しながら女の子は下がって行く。
「あの子かわいいなー。ずっと来てくれるって事は、この席の担当なのかなー」
「お前さー。冗談でもそういう事、口にしない方がいいんじゃねーの?」
「え? 何で?」
「……連絡、取ってんのかよ」
非難がましい目に照れ臭さが加わり、何とも言えない微妙な顔でオレを一瞥した花井は深く溜息を吐いた。
「あんなんだけど……ってお前にこういう言い方するのも何だけど、阿部って冗談通じない上に結構メンタル弱いんだからさー」
「ああ……うん、そうだね。花井と同じぐらい弱いよな」
「だろ? だったらさあ……って、はあ?」
「何? まさか自分でわかってない訳じゃないよな?」
正面に座る花井をわざと横目で見ながら薄笑いを浮かべたオレは、我ながら意地悪い顔してんだろうなと思う。昔から何故か花井にだけは他のメンバーの前では見せない挑戦的な態度を取れたが、それは今でも変わらないようだった。
当の花井は酒の所為もあってか目を剥きかけたが、失礼致します、と第三者が登場した事ですっかり気勢をそがれたらしい。残っていたビールを一気に飲み干すと運ばれてきたばかりの揚げ物にこれでもかとレモンを絞り、いくつか口に放り込んだ。
最後の一杯を味わうように飲む花井と、アイスに夢中のオレ。無言でいると、部屋の外の喧噪がとても遠く感じる。
そうして全て浚ったのを見計らったようなタイミングで、可愛いあの子が伝票を持って来てくれた。働きの悪くなった頭を駆使して割算し、ちょうどぴったりの枚数の札を財布から出して花井に突き出すといくらか小銭を返される。
「何これ」
「何って、お前が出し過ぎた分」
「オレちゃんと千円単位で計算したのに」
「オレは十円単位で計算したんだよ」
口元に手を当て、クスクスクスクス、さっきより遠慮無く笑う店員の顔を見ていたら大事な事を思い出した。
「あ! これ! 割引券があったんだ!」
お預かり致します、と何とか言い切った女の子は、社員割引と書かれた紙切れの裏面を確認するとオレの顔を見て驚いたように目を丸くしてから、柔らかさにほんの少し緊張が加わった面持ちで頭を下げた。
「弟さんにはいつも大変お世話になっております。……良く似てらっしゃいますね」
用を足してから店の入口に戻るとご丁寧に二人分の靴が並べられていて、チェーンの居酒屋の割にはサービス良いなー! と感動しながらそれに足を差し入れていると背後から聞き慣れた声で畏まった挨拶の言葉が掛けられた。
「本日はご来店いただき、誠にありがとうございました」
「うわっ! ビックリしたー!」
「えっ? あ! おー! デカくなったなあ! 栄口、身長抜かれてねーか?」
「うるさいよ」
「お久しぶりです。花井さん、やっぱデカいっすね」
調理場から出てきたらしき弟が花井に頭を下げ、和やかに談笑している。その光景が無性に気恥ずかしくて、忙しいんだろ? とさっさと切り上げようとするとさっきまで甲斐甲斐しく働いていた女の子がこちらに向かって来るのが見えた。目が合った途端、満面の笑みで会釈をしてくれた事に気を良くしていると、そのまま真っ直ぐこちらまでやって来て、弟のユニフォームの裾を引っ張った。
「あ、あー……のさ、兄貴。ちょっと話があるんだけど」
振り返り、後ろに立つ人物を確認した弟はどこか気まずそうに視線を彷徨わせてから呟く。その弟に隠れるようにしてはいたが、可愛い子の頬が一気に染まったのがわかった。
「え? 今?」
「なら、オレ店の外で待ってっから。じゃあ、またな。バイト頑張れよー」
オレ達兄弟の顔を順に見ながら早口に告げると、従業員二人が揃って来店に対する感謝を述べているのに花井はさっさと暖簾を潜り自動ドアを出て行ってしまった。
「で、話って?」