吸血鬼異変 1
私の問いに、彼女は驚いたように目を見開いた。
だが、それも本当に一瞬の事だ。
感情を語る瞳は直ぐに伏せられ、この部屋の暗がりに包まれてしまう。
「――あいつか、ああ。知っている。話せば長い。古い話だ」
だが、彼女はそれでも、ぽつぽつと、昔話を始めてくれた。
外の天気は大荒れのようだった。
森の木々を切り裂く突風が、時折、立て付けのわるい窓ガラスを叩く。
それでも不思議と、この家の中に満ちる空気はとても穏やかだった。
机の上に揺れるろうそくが、穏やかな空気の流れを演出し、
物語の語り手の背後にくべられた、暖炉の火の爆ぜる音が、
静かに時を刻んでいく。
「知ってるか? あの異変にあった、三つの意思のこと」
いつの間にか、彼女の口調は、すっかり元の調子を取り戻していた。
一時、消え入りそうだった声も、今は元来の明るさが宿り、
むしろ、昔話に食い入る私を、どこかおちょくるような節すら見える。
「強さを求めるもの」
「プライドに生きるもの」
「戦況を利用しようとするもの」
彼女は、そう、指折り数えてから、
「この三つだな」と、どこか懐かしむように天井を仰ぐ。
「あいつは。――そうだな。確かにその中の一つだった」
彼女の名は、霧雨魔理沙。
人里から離れた場所に住む人間であり、
私が追う、ある人物の元同僚だ。
数年前、幻想郷を巻き込んだ異変があった。
――吸血鬼異変。
その空に軌跡を描き、歴史から消えた人間がいた。
畏怖と経緯の狭間で生きた一人の少女。
私は彼女を追っている。
そして。
異変を駆け抜けた、もう一人の人間の言葉で、物語の幕は上がる。
「あれは、雪の降る寒い日だった」
眼下に一面の真っ白が流れていく。
飛行速度を知るのは、転々とある枯木と、細くなだらかな稜線だけだ。
雪の照り返す光の明暗は役に立たない。雲が厚く、日差しが届かない。
「――降ってきたな」
頬に数滴、冷たいものが当たるのを感じた。
霧雨魔理沙は、思わず重く湿気ったため息を吐き出す。
真冬に加え、上空の空気は冷たい。
飛翔速度と相まって、薄い冷気が、顔の皮膚を切り裂いていく。
『聞こえるかしら? みんな、上がったようね』
雪風に晒されてパリパリになった鼓膜に、耳障りな声が突き刺さった。
魔理沙は帽子を抑えながら、声のした方、自分の胸ポケットをのぞく。
そこには、一枚の札があって、その輪郭が微妙に歪んでいる。
なるほど、さっき持たせた札はこのためか。
境界を弄くって、いつの間にかこんな仕掛けを用意していたのか。
魔理沙は渋い顔をし、感覚の無くなった鼻を鳴らして返事に変える。
正直、この声の主、八雲紫という妖怪、虫が好かない。
自分も含め、妖怪や妖精の、部隊とも言えないようなこの混沌。
その指揮を取っているのが、先ほど札から聞こえた声の主だ。
聞く話によれば、この幻想郷で1、2を争う強力な奴らしいが、
特段、畏敬や、畏怖を感じるワケでは無かった。
――こんなんになるまで放っておきやがってさ。
異変の始末に遅れた支配者に対する、やり場の無い不満ばかりだ。
吸血鬼がこの幻想郷に侵攻を開始して、もうどれほど経ったろうか。
目的は知らない。
だが、その勢力に不穏な動きのあることは、風の噂で知っていた。
きっかけは、博霊結界の消失だ。
彼らの侵略と共に、異変の広がるのはあっという間だった。
既存の勢力の抵抗が、殆ど無かったからだ。
妖怪が弱体化していたのは知っている。
それでも、やりようはいくらでもあったろうに。
こんな切羽詰った状態で、挙句人間まで巻き込む体たらくだ。
しかも、現状、作戦もクソもありはしない。
責めてくる敵を、一つ残らず打ち落とせ、なんて、言うだけ楽だろう。
尻拭いをする方の身にもなって欲しいものなのだ。
『魔理沙、返事はどうしたの?』
「感極まって声に詰まったんだぜ」
個別に飛んできた確認に、しぶしぶ返事を返し、もう一度鼻をすする。
『いいわ。あなたは霊夢と組みなさい』
「――よく聞こえなかったんだが。なんだって?」
『人間同士での行動を命じたの。誰かは、説明しなくても分かるわね』
「……」
魔理沙は、今度こそもう、反応をするのも嫌になった。
帽子を目深に被り、重心を右へ。
跨るほうきを中心に横回転し、低空飛行。高度を速度に変える。
――勘弁してくれ。
このばか、まだこの異変を、簡単な騒動程度にしか考えていないのか。
もうここはゲーム板の上じゃない。ルール無用の戦場だ。
自分で言って情けなくなるが、人間なんて、この幻想郷じゃあ最弱だ。
弱体化した妖怪にだって余裕で劣る。
現在、最も強力な吸血鬼相手であれば、比べるのすらおこがましい。
そんなチンケなもの同士で、タッグを組め、だって?
妖怪の後ろで、邪魔にならないよう援護に徹するのが筋じゃないのか。
そもそも、こんな所に人間が出てくること事体、どうかしているのだ。
だが、分かっている。いよいよ戦力不足なのだ。
こうして、妖怪の山まで追い詰められて、妖怪たちの目が覚めて、
やっと一つ、まとまった反抗勢力が出来上がったと思ったら、
こうして今、その出鼻を挫かれようとしている。
今、この空を飛んでいる自分たちには、種族も強さも関係がない。
そんなものを問うている余裕などない。
総力戦だ。ここが落とされれば、幻想郷はそれで終わりだ。
魔理沙は、隊列の中を、斜めに滑るように飛んでいく。
そして、先頭まで来たところで、やっとその姿を見つけた。
白と赤のツートンの衣服に身を包んだ、一人の少女。
血気盛んな妖怪に混じって、一直線に作戦空域に向かっている。
なるほど、自分の相棒になる人間は、随分と好戦的な奴らしい。
少し不安に思ったが、空を飛べている分、普通よりは出来るのだろう。
飛んでいる自分がこんな事を言うのは、嫌に自慢しているみたいだが、
妖怪にとっての当たり前も、人間には結構な才能と努力が必要なのだ。
「よ、人間」
横に並んで声を掛ける。
艶のある黒の短い髪に、大きな赤いリボンが印象的だ。
風に揺れる前髪からのぞく目は、こちらを見てはいない。
お前だって人間だろ、みたいな突込みが来るのをしばらく待ったが、
その紅白は、返事どころか、こちらに一瞥をくれる事すら無かった。
――こんにゃろう。
魔理沙は心中悪態をついたが、上辺は平静を保って言葉を続ける。
「さっきの、紫って妖怪の話、聞こえたか」
「――ええ」
小さな返事が返ってきた。どうやら口がきけないわけでは無いらしい。
「ならいいんだ。お前とチームを組むことになった、霧雨魔理沙だ。
お前、霊夢って言うんだってな。仲良くやろうぜ」
でも、この調子じゃあ、名前を聞くのは無理だろう。
多くを語るのを諦めて握手を求めたが、やはりそれも無視された。
いい加減、額にピシっと青い筋が走りそうだったが。
『――来たわよ』
不意に紫の注意が掛かる。魔理沙は視線を前方に向ける。
厚い雪雲の向こう、小さな黒い影が霞がかって見えた。
だが、それも本当に一瞬の事だ。
感情を語る瞳は直ぐに伏せられ、この部屋の暗がりに包まれてしまう。
「――あいつか、ああ。知っている。話せば長い。古い話だ」
だが、彼女はそれでも、ぽつぽつと、昔話を始めてくれた。
外の天気は大荒れのようだった。
森の木々を切り裂く突風が、時折、立て付けのわるい窓ガラスを叩く。
それでも不思議と、この家の中に満ちる空気はとても穏やかだった。
机の上に揺れるろうそくが、穏やかな空気の流れを演出し、
物語の語り手の背後にくべられた、暖炉の火の爆ぜる音が、
静かに時を刻んでいく。
「知ってるか? あの異変にあった、三つの意思のこと」
いつの間にか、彼女の口調は、すっかり元の調子を取り戻していた。
一時、消え入りそうだった声も、今は元来の明るさが宿り、
むしろ、昔話に食い入る私を、どこかおちょくるような節すら見える。
「強さを求めるもの」
「プライドに生きるもの」
「戦況を利用しようとするもの」
彼女は、そう、指折り数えてから、
「この三つだな」と、どこか懐かしむように天井を仰ぐ。
「あいつは。――そうだな。確かにその中の一つだった」
彼女の名は、霧雨魔理沙。
人里から離れた場所に住む人間であり、
私が追う、ある人物の元同僚だ。
数年前、幻想郷を巻き込んだ異変があった。
――吸血鬼異変。
その空に軌跡を描き、歴史から消えた人間がいた。
畏怖と経緯の狭間で生きた一人の少女。
私は彼女を追っている。
そして。
異変を駆け抜けた、もう一人の人間の言葉で、物語の幕は上がる。
「あれは、雪の降る寒い日だった」
眼下に一面の真っ白が流れていく。
飛行速度を知るのは、転々とある枯木と、細くなだらかな稜線だけだ。
雪の照り返す光の明暗は役に立たない。雲が厚く、日差しが届かない。
「――降ってきたな」
頬に数滴、冷たいものが当たるのを感じた。
霧雨魔理沙は、思わず重く湿気ったため息を吐き出す。
真冬に加え、上空の空気は冷たい。
飛翔速度と相まって、薄い冷気が、顔の皮膚を切り裂いていく。
『聞こえるかしら? みんな、上がったようね』
雪風に晒されてパリパリになった鼓膜に、耳障りな声が突き刺さった。
魔理沙は帽子を抑えながら、声のした方、自分の胸ポケットをのぞく。
そこには、一枚の札があって、その輪郭が微妙に歪んでいる。
なるほど、さっき持たせた札はこのためか。
境界を弄くって、いつの間にかこんな仕掛けを用意していたのか。
魔理沙は渋い顔をし、感覚の無くなった鼻を鳴らして返事に変える。
正直、この声の主、八雲紫という妖怪、虫が好かない。
自分も含め、妖怪や妖精の、部隊とも言えないようなこの混沌。
その指揮を取っているのが、先ほど札から聞こえた声の主だ。
聞く話によれば、この幻想郷で1、2を争う強力な奴らしいが、
特段、畏敬や、畏怖を感じるワケでは無かった。
――こんなんになるまで放っておきやがってさ。
異変の始末に遅れた支配者に対する、やり場の無い不満ばかりだ。
吸血鬼がこの幻想郷に侵攻を開始して、もうどれほど経ったろうか。
目的は知らない。
だが、その勢力に不穏な動きのあることは、風の噂で知っていた。
きっかけは、博霊結界の消失だ。
彼らの侵略と共に、異変の広がるのはあっという間だった。
既存の勢力の抵抗が、殆ど無かったからだ。
妖怪が弱体化していたのは知っている。
それでも、やりようはいくらでもあったろうに。
こんな切羽詰った状態で、挙句人間まで巻き込む体たらくだ。
しかも、現状、作戦もクソもありはしない。
責めてくる敵を、一つ残らず打ち落とせ、なんて、言うだけ楽だろう。
尻拭いをする方の身にもなって欲しいものなのだ。
『魔理沙、返事はどうしたの?』
「感極まって声に詰まったんだぜ」
個別に飛んできた確認に、しぶしぶ返事を返し、もう一度鼻をすする。
『いいわ。あなたは霊夢と組みなさい』
「――よく聞こえなかったんだが。なんだって?」
『人間同士での行動を命じたの。誰かは、説明しなくても分かるわね』
「……」
魔理沙は、今度こそもう、反応をするのも嫌になった。
帽子を目深に被り、重心を右へ。
跨るほうきを中心に横回転し、低空飛行。高度を速度に変える。
――勘弁してくれ。
このばか、まだこの異変を、簡単な騒動程度にしか考えていないのか。
もうここはゲーム板の上じゃない。ルール無用の戦場だ。
自分で言って情けなくなるが、人間なんて、この幻想郷じゃあ最弱だ。
弱体化した妖怪にだって余裕で劣る。
現在、最も強力な吸血鬼相手であれば、比べるのすらおこがましい。
そんなチンケなもの同士で、タッグを組め、だって?
妖怪の後ろで、邪魔にならないよう援護に徹するのが筋じゃないのか。
そもそも、こんな所に人間が出てくること事体、どうかしているのだ。
だが、分かっている。いよいよ戦力不足なのだ。
こうして、妖怪の山まで追い詰められて、妖怪たちの目が覚めて、
やっと一つ、まとまった反抗勢力が出来上がったと思ったら、
こうして今、その出鼻を挫かれようとしている。
今、この空を飛んでいる自分たちには、種族も強さも関係がない。
そんなものを問うている余裕などない。
総力戦だ。ここが落とされれば、幻想郷はそれで終わりだ。
魔理沙は、隊列の中を、斜めに滑るように飛んでいく。
そして、先頭まで来たところで、やっとその姿を見つけた。
白と赤のツートンの衣服に身を包んだ、一人の少女。
血気盛んな妖怪に混じって、一直線に作戦空域に向かっている。
なるほど、自分の相棒になる人間は、随分と好戦的な奴らしい。
少し不安に思ったが、空を飛べている分、普通よりは出来るのだろう。
飛んでいる自分がこんな事を言うのは、嫌に自慢しているみたいだが、
妖怪にとっての当たり前も、人間には結構な才能と努力が必要なのだ。
「よ、人間」
横に並んで声を掛ける。
艶のある黒の短い髪に、大きな赤いリボンが印象的だ。
風に揺れる前髪からのぞく目は、こちらを見てはいない。
お前だって人間だろ、みたいな突込みが来るのをしばらく待ったが、
その紅白は、返事どころか、こちらに一瞥をくれる事すら無かった。
――こんにゃろう。
魔理沙は心中悪態をついたが、上辺は平静を保って言葉を続ける。
「さっきの、紫って妖怪の話、聞こえたか」
「――ええ」
小さな返事が返ってきた。どうやら口がきけないわけでは無いらしい。
「ならいいんだ。お前とチームを組むことになった、霧雨魔理沙だ。
お前、霊夢って言うんだってな。仲良くやろうぜ」
でも、この調子じゃあ、名前を聞くのは無理だろう。
多くを語るのを諦めて握手を求めたが、やはりそれも無視された。
いい加減、額にピシっと青い筋が走りそうだったが。
『――来たわよ』
不意に紫の注意が掛かる。魔理沙は視線を前方に向ける。
厚い雪雲の向こう、小さな黒い影が霞がかって見えた。