ノーボーイズ、ノークライ
ボストンバッグに収まりきった荷物を肩に下げる。「自分のもの」という存在の少なさと軽さを思った以上に感じたが、それを悲しいとは思わなかった。ドアノブに手をかけ、開く前に一度部屋を振り向いて見渡した。このお日さま園では相部屋が基本だったが、人数の都合で一部屋を一人で使うことができた。ベッドと学習机とチェストが置かれただけの必要最低限の部屋を「味気ない」と評したのは誰だったか。
なにか感傷でもこみ上げるかと思ったが期待は外れたので部屋を出ると、すぐ外の壁に寄りかかるようにして瞳子がいた。どう挨拶したらいいか考えていると、先に向こうから話をきりだしてくれた。
「本当に出て行くのね?」
「うん。昨日話したとおり、今日からは一人でやっていってみるよ」
その言葉に瞳子がちいさく笑った。
「昨日も散々話したけど、まったく理解してくれないほどあなたが馬鹿だとは思わなかったわ」
「そうかな?自分がそこまで賢い人間だって自負した覚えもないけど」
「話を茶化さないで」
きっぱりと刺すような音に思わず背筋が伸びてしまう。目をそらしてしまったのは、瞳子の表情が怒りのそれよりも哀色に満ちていたからだ。この顔がひどく苦手なことに気づいたのは最近のことだった。意図はなくとも自分がそうさせているのだという事実があるからなおさらである。
「まだいまなら許すわ。荷物を持って部屋に戻りなさい」
「それはできないよ」
「意地をはるのも大概になさい」
「一度決めたら譲らない頑固なところは、姉さんと一番よく似てる気がするね」
お互い譲らない堂々巡りの会話ばかり続くが、これを無駄とは思わなかった。自分は自己のために、姉は自分のために考えて行動しているからだ。
(どちらも僕のためのはずなのに一致しないなんて)
(でもどちらが自分のためかを選ぶのは)
「大学も行かない、就職もしない。特にやりたいことがある訳でもないけどとりあえず家を出て行くなんて、それのどこが決めた考えだって言うの」
深い、とても深い息を瞳子ははきだした。
「行くあてもないのに、今日はどこで夜を過ごす気なの?今日だけじゃないわ。明日からもこの先ずっと」
「お金なら新聞配達で貯めた分があるからしばらくはなんとかなるよ」
高校は寮がある学校を希望していたが、自宅から自転車圏内の私立高校から無利子の奨学金を提供してもらえることになってそれに飛びついた。新聞配達や長期休暇中のアルバイトで稼いだお金の一部を食費分だけでもと、園に収めて残りはほとんど使わなかった。どうしても欲しいものなどそうはなく、いつかのこの日のためにと貯蓄していた。人ひとりが生活していくには微々たるものだったが、明日あさってのご飯を心配する必要はないくらいにはある。
「あなたがなにを考えているのかわからないけど、その年齢でひとりで楽して生きていけるほど社会は単純にできていないわよ」
「楽して生きていこうなんて思ったこと、一度もないけどね」
瞳子は廊下の天井を仰いで、また肺の空気をすべて無くすように息をいっぱいに吐いた。
「ねえ、なぜあなたはそうもかたくなに、この家を出ていこうとするの?特にやりたいことがないのなら、見つかるまでここにいたって構わないのよ。お金のことは遠慮しなくていいから。あなたは私たちの家族なのよ」
この家の住人のほとんどは、血という繋がりがない。それについて悲しみや不条理を味わったことがないと言えば嘘になるが、それらを塗りつぶすほどにあたたかくてきらきらしたものを手にしたのも事実である。
「ありがとう、姉さん。俺も家族だと思ってる。皆、大切なね」
「だったら、なんで――」
「俺を引き取って育ててくれたことにはとても感謝してる。姉さんたちと出会えて一緒に過ごせたことも幸せだとはっきり言える。それが例え亡くなった『ヒロト』さんの代わりでもね」
瞳子がなにか発しようと口を開くが、介入されないように言葉を続けた。きっと否定か謝罪の言葉を告げようとしているのだろうが、いまその言葉は自分には不必要であった。
「正直、僕にとって『ヒロト』さんの代わりか、そうかじゃないなんてどうでもよかったんだ。どんな理由であったとしても僕がここにいてもいい、大切な存在意義だったから。でもあの日、円堂くんたちと戦った時からよくわからなくなったんだ。僕は、いったい『誰として』ここにいいのかなって」
会ったことのない、知らない「ヒロト」として生きてきて、ある日そう在ることはなくてもいいと言われた。代わりの「ヒロト」を演じることはないと。自分の皮が一枚一枚剥がれ落ちてゆっくりと溶けるように崩壊していき、最後に残ったものは、なにもなかった。地面についている足が浮いて感覚がおぼつかなくなり、体のすべての細胞が拒否するように叫んでいた。自分はいったい、誰なのかと。だがその答えはあまりに単純明快で、たやすく手に入れることができた。
「…あなたは兄さんじゃない、『ヒロト』として、ここにいればいいのよ」
「姉さんなら、そう言ってくれると思ってた。俺もそう思うし、そうしたいって思ってる」
「それならここにいてちょうだい。いままでのように、これからも」
「ごめん、姉さん。やっぱりそれはできない」
瞳子の瞳に一瞬やわらかな光がさしこんが、自分の一言でそれは霧散した。自分がどうしてもやりたいことがあって、それに向けて歩み出しているはずなのにこうして大切な人を傷つけている。人が生きるということはこういうものなのかと思ったが、まだ歩みだしたばかりの自分には断言できなかった。
「自分が『ヒロト』さんの代わりじゃなくて、『自分』として生きていいんだって気づいた時からちょっと欲張りになったんだよね。それまでは自分の持ち物は自分のものじゃなくて、『ヒロト』さんのものだと思ってたし。この名前すらも。でも、それから手に入れたものは全部『自分』のもので、やることすべても『自分』のことになった。そうしたら、もっと色々欲しくなっちゃったんだよね」
なにひとつ「自分のもの」だと思ったことがないそれまでの毎日が、色を知らなかったキャンパスのようにどんどんと鮮やかになっていった。毎日新しい色が塗られて、あふれるほどに輝いていく。目映くて、目が眩みそうな日々になった。
「そうしたら今度は自分の人生も欲しくなっちゃったんだよね。誰のものでもない、自分だけの道が。すべて自分で選んで、決めて、生きていく。それは、ここにいたらできないことなんだ」
なにか感傷でもこみ上げるかと思ったが期待は外れたので部屋を出ると、すぐ外の壁に寄りかかるようにして瞳子がいた。どう挨拶したらいいか考えていると、先に向こうから話をきりだしてくれた。
「本当に出て行くのね?」
「うん。昨日話したとおり、今日からは一人でやっていってみるよ」
その言葉に瞳子がちいさく笑った。
「昨日も散々話したけど、まったく理解してくれないほどあなたが馬鹿だとは思わなかったわ」
「そうかな?自分がそこまで賢い人間だって自負した覚えもないけど」
「話を茶化さないで」
きっぱりと刺すような音に思わず背筋が伸びてしまう。目をそらしてしまったのは、瞳子の表情が怒りのそれよりも哀色に満ちていたからだ。この顔がひどく苦手なことに気づいたのは最近のことだった。意図はなくとも自分がそうさせているのだという事実があるからなおさらである。
「まだいまなら許すわ。荷物を持って部屋に戻りなさい」
「それはできないよ」
「意地をはるのも大概になさい」
「一度決めたら譲らない頑固なところは、姉さんと一番よく似てる気がするね」
お互い譲らない堂々巡りの会話ばかり続くが、これを無駄とは思わなかった。自分は自己のために、姉は自分のために考えて行動しているからだ。
(どちらも僕のためのはずなのに一致しないなんて)
(でもどちらが自分のためかを選ぶのは)
「大学も行かない、就職もしない。特にやりたいことがある訳でもないけどとりあえず家を出て行くなんて、それのどこが決めた考えだって言うの」
深い、とても深い息を瞳子ははきだした。
「行くあてもないのに、今日はどこで夜を過ごす気なの?今日だけじゃないわ。明日からもこの先ずっと」
「お金なら新聞配達で貯めた分があるからしばらくはなんとかなるよ」
高校は寮がある学校を希望していたが、自宅から自転車圏内の私立高校から無利子の奨学金を提供してもらえることになってそれに飛びついた。新聞配達や長期休暇中のアルバイトで稼いだお金の一部を食費分だけでもと、園に収めて残りはほとんど使わなかった。どうしても欲しいものなどそうはなく、いつかのこの日のためにと貯蓄していた。人ひとりが生活していくには微々たるものだったが、明日あさってのご飯を心配する必要はないくらいにはある。
「あなたがなにを考えているのかわからないけど、その年齢でひとりで楽して生きていけるほど社会は単純にできていないわよ」
「楽して生きていこうなんて思ったこと、一度もないけどね」
瞳子は廊下の天井を仰いで、また肺の空気をすべて無くすように息をいっぱいに吐いた。
「ねえ、なぜあなたはそうもかたくなに、この家を出ていこうとするの?特にやりたいことがないのなら、見つかるまでここにいたって構わないのよ。お金のことは遠慮しなくていいから。あなたは私たちの家族なのよ」
この家の住人のほとんどは、血という繋がりがない。それについて悲しみや不条理を味わったことがないと言えば嘘になるが、それらを塗りつぶすほどにあたたかくてきらきらしたものを手にしたのも事実である。
「ありがとう、姉さん。俺も家族だと思ってる。皆、大切なね」
「だったら、なんで――」
「俺を引き取って育ててくれたことにはとても感謝してる。姉さんたちと出会えて一緒に過ごせたことも幸せだとはっきり言える。それが例え亡くなった『ヒロト』さんの代わりでもね」
瞳子がなにか発しようと口を開くが、介入されないように言葉を続けた。きっと否定か謝罪の言葉を告げようとしているのだろうが、いまその言葉は自分には不必要であった。
「正直、僕にとって『ヒロト』さんの代わりか、そうかじゃないなんてどうでもよかったんだ。どんな理由であったとしても僕がここにいてもいい、大切な存在意義だったから。でもあの日、円堂くんたちと戦った時からよくわからなくなったんだ。僕は、いったい『誰として』ここにいいのかなって」
会ったことのない、知らない「ヒロト」として生きてきて、ある日そう在ることはなくてもいいと言われた。代わりの「ヒロト」を演じることはないと。自分の皮が一枚一枚剥がれ落ちてゆっくりと溶けるように崩壊していき、最後に残ったものは、なにもなかった。地面についている足が浮いて感覚がおぼつかなくなり、体のすべての細胞が拒否するように叫んでいた。自分はいったい、誰なのかと。だがその答えはあまりに単純明快で、たやすく手に入れることができた。
「…あなたは兄さんじゃない、『ヒロト』として、ここにいればいいのよ」
「姉さんなら、そう言ってくれると思ってた。俺もそう思うし、そうしたいって思ってる」
「それならここにいてちょうだい。いままでのように、これからも」
「ごめん、姉さん。やっぱりそれはできない」
瞳子の瞳に一瞬やわらかな光がさしこんが、自分の一言でそれは霧散した。自分がどうしてもやりたいことがあって、それに向けて歩み出しているはずなのにこうして大切な人を傷つけている。人が生きるということはこういうものなのかと思ったが、まだ歩みだしたばかりの自分には断言できなかった。
「自分が『ヒロト』さんの代わりじゃなくて、『自分』として生きていいんだって気づいた時からちょっと欲張りになったんだよね。それまでは自分の持ち物は自分のものじゃなくて、『ヒロト』さんのものだと思ってたし。この名前すらも。でも、それから手に入れたものは全部『自分』のもので、やることすべても『自分』のことになった。そうしたら、もっと色々欲しくなっちゃったんだよね」
なにひとつ「自分のもの」だと思ったことがないそれまでの毎日が、色を知らなかったキャンパスのようにどんどんと鮮やかになっていった。毎日新しい色が塗られて、あふれるほどに輝いていく。目映くて、目が眩みそうな日々になった。
「そうしたら今度は自分の人生も欲しくなっちゃったんだよね。誰のものでもない、自分だけの道が。すべて自分で選んで、決めて、生きていく。それは、ここにいたらできないことなんだ」
作品名:ノーボーイズ、ノークライ 作家名:マチ子