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ノーボーイズ、ノークライ

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 瞳子は黙ってこちらを見ていた。「ヒロト」の言葉を一語一句漏らさないように聴き、受け止めていく。二人しかいない廊下に、窓からもう春のそれになったやわらかな日差しが降ってくる。
「…わかったわ。もう、止めない。あなたがそう決めたなら、あなたの好きなようになさい。…本当はきっともう、止める権利なんて私にはなかったのね」
「でも嬉しかったよ。引き留めてくれて。姉さん、俺がいないからって寂しくて泣かないでね」
 なに言ってるのよと、彼女にしてはひどく小さな呟きが届いた。その瞳は静かに光っていたが、陽の光を受けたためではなかった。堅く握られた白い手は、自分よりもずっと大きかったはずなのに、小さく見えるようになったのはいつからだったか。
「…でも、これだけは忘れないでね。あなたは私の、私たちの家族なの。いつでも帰ってらっしゃい」
「うん、わかってる。家族だからずっと一緒じゃないけど、家族だからいつか帰ってくるよ」
 廊下を抜けて階下に向かう前に、一度振り向いた。世界でたったひとりの姉の潤んだ瞳と目が合う。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
別れの言葉は短かった。それで十分だった。



 階段を下ればすぐ玄関になる。そこに同じくここで育った二人がいた。ひとりはいつものように仏頂面で、ひとりはいつものように涼しい顔をしていた。
「本当に出て行くとは、とんだ大馬鹿野郎だな」
「うん。俺の部屋、どっちかが使っていいよ。一人部屋になって嬉しいだろ」
「それは有り難いな。これでもう南雲の寝言と鼾に悩まされなくて済む」
「手前こそ寝相最悪じゃねえか!」
 南雲も涼野もスポーツの特待生として大学の進学が決まっていた。幸か不幸か、同じ大学である。
「まあ、二人とも元気でね。すこしは仲良くやっていきなよ」
「っは。言われなくても勝手にやるさ」
 腕を組んで一度もこちらを見ない南雲の目が妙に湿っぽいのを疑問に思っていると、察した涼野が教えてくれた。
「そこの馬鹿は君と姉さんの会話を図々しくも立ち聞きして、もらい涙しているのさ。まったく情けないやつだな」
「おいこら、手前も一緒に聴いてただろうが!」
 いつもと変わらない二人のやり取りに思わず笑ってしまう。この会話がしばらく聴けないのだと思うとふいに寂しくなって、ああこれが感傷というものかと気づいた。
「なに笑ってやがんだよ。そんな余裕、いつでもあると思ったら大間違いだからな。せいぜい野垂れ死なないようにがんばるこった」
「相変わらず素直じゃないなあ、南雲は。そんなんじゃあ大学へ行っても女の子にもてないよ」
 隣で文句を吐き続ける友人を視界の隅においやって、もうひとりの友人であり家族に向き合う。
「姉さんのこと、よろしくね」
「…そんなに心配なら出て行かなければいいだろうに。まあ、お前が心配することじゃないさ。私に任せておけ」
 自信の根拠はわからないが、頼もしいのには違いなかった。右の拳を差し出すと、相手もそれに倣い右の拳をあわせてきた。あとは目だけを二人と合わせて、それで別れは終わった。