光
予め目立たない場所の窓を開けておいたらしく、日常的に通っているような慣れた様子で校内を進む毛利に気付かれないようについていくのは大変だったが、好奇心の方が明らかに勝っていた。
――あいつ、何処行くんだ?
毛利はどんどんと上へと上がっていく。どうやら屋上へ向かっているようだった。
屋上の軋むドアを開けるのには神経を使ったが、開けてみると、都合良く毛利はドアを背にしていてくれたので気付いていないようだ。何をするのかと、半分ほど開けたドアの間から眺める。
毛利は、スッと背筋を伸ばし、朝日に向かってゆるく両手を広げて日の光を浴びていた。
それは何かの儀式のようで、とても声を掛けられるような雰囲気では無かった。だがそれには敬虔なる信仰心というよりも、それ以外に拠り処のない狂信者の一途なまでの必死さを感じる。
何故だか、ひどく、哀しい。
何も言えずに眺めていると、その姿にフラッシュバックのように別の光景が重なって見えた。
海に浮かぶ大きな赤い鳥居と、壮麗な社。
「――えッ?」
一瞬で消えた幻に声を上げると、鋭く振り向いた毛利が俺の姿を捉えた瞬間、その表情が揺れた。
すぐに張り付いたような無表情に取って替わられたが、懐しい、苦しい、嬉しい、哀しい、そのどれともつかぬ、そしてそのどれでもある表情。しかしそれを一瞬で消し去ると、無言のまま、またもするりと脇を通り過ぎて行こうとする。まただ。また、行ってしまう。
そう思った瞬間、声が出ていた。
「――なァ!昔、どっかで逢ったことねェか?」
その一言に、毛利は弾かれたようにこちらを振り向いた。つかつかと近づいてくると、確かめるようにじっと俺の眼を見た。欲しい何かを目を凝らして探しているような、真っ直ぐな眼差しを向けられて、戸惑いに視線が定まらなくなっているのが自分でも分かった。すると毛利は失望したようにため息をついた。
「気のせいぞ」
「でもアンタは俺を知ってンだよな?」
また背を向けて行ってしまいかけた毛利を引き止めたくて、その細い手首を掴んで言葉を繋げた。しかし毛利は、身長差のため下から見上げているというのに、蔑むような視線を投げてきた。
ただ俺は、根拠もなくそれが虚勢だと確信していたので、怯むことなく更に手に力を込める。
すると毛利は、吐き棄てるような声で言った。
「貴様のことなど知らぬ――…良く似た男を知っていただけよ」
「あの赤いデッケェ鳥居は何か関係あンのか?」
毛利はその言葉に驚いたようだが、すぐに眉根を寄せて訝しげに訊いてきた。
「何故知っておる…?」
「さっき見えた」
「世迷言を。もう関わるな。貴様には関わりのないことぞ」
掴んだ腕を振り払われる。しかしまたすぐに掴み直した。今度は逃げられないように左右の二の腕をしっかりと掴む。痛みに顔を顰めた毛利が、凍るような視線で睨みつけてきた。
「気になンだよ!アンタは何か言いたそうな目ェしてるしよー」
その言葉に、元就の目の色が変わった。完全に感情が消えた表情は、逆に迫力が増して思わず気圧された。掴んでいた手の力が緩む。
「なら言おうか。貴様が忘れるなどと言うから、我は我を忘れられぬ。守るべき国も家ももう無いというのに。貴様の言葉は呪いだ。何故今生でも縛られねばならぬ?―――貴様は、何故、我を本当に忘れられるのだ」
淡々としているのに強く響く言葉とともに、振り上げた右の拳で強く胸を打たれた。何度も。表情にも声にも表れない、毛利の激情がそこにあった。
そして不意に、腕を下ろして俯いた。
「答えよ、長曾我部……」
これだけ近くなければ聞こえないくらいの、小さく頼りなげな声に、思わず呟いた。
「アンタは、相変わらず孤独なんだな」
それを契機にしたかのように、脳内に怒涛のように記憶が流れ込んでくる。
400年前の、自分とこの男。その、想い。確かに心が通じていたと感じていた日々と、それを粉々に打ち砕くような―――結末が。
その奔流の激しさに、堪らず目の前の男をかき抱いた。
「何を……!」
「俺は、アンタを許せねェ」
「そなた、思い出したのか!」
毛利が突然腕の中でもがいて逃れようとするのを、逃さないようにさらに腕に力を込める。
逃がしたくないというだけでなく、そうやって縋っていないと嵐のような記憶と感情に押し潰されてしまいそうだった。制御できない感情が溢れ出る。
「許せねェ。許せねェけど、ほっとけねェ。何でまたアンタ独りなんだよ?」
勝手な物言いなのは分かっていたが、毛利の存在が哀しすぎて言わずにはおれなかった。
あの時代も、そうだった。家を、国を守る為に、この男は孤高であることを選んだ。動かせる駒を全て使い、時には容赦なく切り捨て、毛利と安芸のほかに大事なものなど持たないように。
そして自分もまた国主として譲れない矜持があった。私を犠牲にしても公を守らねばならない時代だった。だが今は違う。なのにこの男はあの時代に縛られ、孤独のままだ。それが、哀しい。
ふと、強張っていた毛利の身体の力が緩んだ。
「――そんなことも分からぬのか。……貴様が、いないからに決まっておろう」
まさかそんな言葉が返ってくるとは思わず、絶句する。
居丈高な物言いながら、腕の中で身体の力を抜いて体重を預けてくる毛利に、堪らなくなった。
毛利がしたことは許せない。だがそれを凌駕する程に大きくこの胸を占めるのは、愛しいという想いだった。そう、もうあの時代ではないのだ。自分たちを縛る『公』はもう無い。
「アンタ、ヒくかもしんねェけどよ」
「今風の戯けた言葉を覚えおって…何だ。言うてみよ」
顔を伏せたまま、呆れ切った口調で言われる。大真面目に続けた。
「今すぐアンタを抱きてェ」
「――貴様、本当に獣よな」
呆れるのを通り越して、むしろ不思議そうに言われてしまった。
「しょうがねェだろ?アンタの匂い久しぶりに嗅いだら理性なんてトんじまう」
「元々貴様に理性などなかったであろうが」
「ヒデェな」
拗ねた声で抗議すると、腕の中で毛利の肩が小刻みに揺れた。
「ン?今笑ったか?イロイロ思い出したけどよ、アンタの笑顔ってほとんど見たことねェんだけど」
「笑える世が来たからな――笑いもする」
「なァ、こっち向けよ。顔見せてくれ」
そう言うと、余計に俺の胸に埋める様にして顔を隠してしまう。
「フン」
「オイ~」
口では文句を言うものの、その実俺は満足していた。毛利が自らの意志で俺の腕の中にいる、それを許される今が、400年の時を超えて自分が手に入れた幸せなのだから。
「見たがっておれ。――そうやって、我を欲しがるがよい。これから、ずっとな」