愛しい物語の終わり
火曜日
夕闇を通り過ぎた頃、その男はふらりと竜ヶ峰帝人の前に現れた。
「やぁ。唐突で悪いんだけど、大通りまで送ってくれない?」
耳馴染みの良い声で告げられた言葉を理解して、帝人はことりと首を傾げた。女でもあるまいし。一人歩きを怖がるような、繊細な人間にはとても見えなかった。どちらかというと、好んで夜闇に紛れるような、そんな印象だ。
帝人が目を丸くしていると、男、折原臨也が唇の端を釣り上げて笑みを作った。毒々しい笑みだと、帝人は思った。
「……臨也さん。どうもお久しぶりです」
戸惑いつつも、帝人は挨拶の言葉を返した。帝人が声を発すると、臨也の笑みが親しげなものに変わった。癖の無い造作のせいか、表情一つで別人のような印象を受ける。帝人はその表情を見てほっとし、自分が無意識に緊張していたことに気が付いた。
「会うのは久しぶりだね、帝人君。姿を見かけて付いて来ちゃったんだけど、君ってばどんどん人気の無いほうへ行くんだもの。焦ったよ。さあ、道すがら話をしようじゃないか」
臨也は帝人の返事も待たず、くるりと踵を返した。状況が飲み込めず、帝人は茫然と歩いていく背中を見つめた。もう寒さも感じないほどの気候なのに、冬用のコートに身を包んでいる。帝人は疑問に思いつつも、小走りにその背を追った。来た道を戻ることになるが、面倒よりも好奇心が勝った。帝人が隣に並ぶと、臨也がふっと笑った。帝人が付いてくると、信じて疑っていないようだった。
「あの、どうしたんですか?」
帝人がそう尋ねると、臨也は軽く片眉を上げた。
「どうしたの、って便利な言葉だよね。色んなことを一遍に尋ねられる。しかし横着でもあるとは思わないかい?」
「はあ」
臨也の意図が分からず、帝人は困惑気味に返した。見上げた臨也の口元は微笑んでいる。
「君にチャットの管理を引き継いでもらおうと思ってさ。……引き受けてくれるかい?」
思わぬ臨也の打診に、帝人は首を傾げた。
「それは構いませんけど、どうして?」
「どうして、って便利な言葉だよね」
「臨也さん」
帝人が嗜めると、臨也はおかしそうに笑った。そして、僅かに上体を屈め、内緒話をするように囁いた。
「大きな声じゃ言えないんだけど、俺、高飛びすることにしたんだ」
「はい?」
帝人はぎょっとして聞き返した。臨也との間にさっと距離を開ける。
「……人でも殺したんですか?」
臨也が常にナイフを持ち歩いていることは、帝人も知るところだった。帝人の頭の中で、見知らぬ他人が凶刃に伏した。
「帝人君。俺のことをそんなふうに思っていたのかい?」
臨也は真面目ぶった表情を作って、帝人に視線を向けた。
「え? あ、いや、そんなことは……」
帝人が焦って弁解しようとすると、臨也が僅かに声を漏らして笑った。本気で機嫌を損ねたわけではないと分かり、帝人はほっと息を吐く。
「追われてるのは警察じゃないんだ。もっと怖いものだよ」
「ヤクザとか、マフィアとかですか」
「そんなところかな。ちなみに、今も尾行されてるから、出来るだけ普通にしててね」
「えっ」
帝人は、思わず周囲を見回したい衝動に駆られた。しかし、ぐっと我慢して首を固定する。背筋に緊張が走った。帝人は周囲に気を配ってみたが、自分たちのほかに足音一つ聞こえなかった。それが逆に恐ろしく、不気味なように感じる。どきどきと鼓動を高鳴らせる帝人に、臨也が指摘した。
「帝人君、顔が笑ってるのはどうしてかな?」
「え?」
帝人は、思わず臨也を振り仰いだ。しかし、ちょうど電灯の下に差し掛かり、臨也の顔は陰になって見えなかった。逆に臨也からは、帝人の顔がはっきり見えただろう。そのことに気が付いて、帝人はさっと顔を伏せた。
「相変わらず、君は怖いもの知らずだね」
「そんな、ことは……」
何と言っていいか分からず、帝人は口籠る。自分では、笑っている自覚は無かった。今だって、確かに冷や汗をかいている。
「だけど気を付けるといい。怖いものなんていくらでもあるからね、この街には」
臨也はそう呟いたが、帝人は返事を返せなかった。しばらく、無言で路地を歩く。
「で、どうかな。やってくれる?」
大通りが見えてきた頃、臨也が尋ねた。そういえば、返事を保留にしたままだ。しかし、帝人は疑問に思って臨也に尋ね返した。
「……海外からでもネットは繋がるんじゃ?」
「そうだけど、万一管理できなくなると困るだろう? 解散するっていうならそれでも良いけど……」
大通りの前で立ち止まり、臨也は首を傾げた。
「あ、いえ、やります」
帝人は、咄嗟にそう答えた。愛着があるのはもちろんだが、現在、正臣と接触できるのはあのチャットルームだけだ。無くすわけにはいかない。
「そう、君ならやってくれると思っていたよ。後で管理者パスワード送るね」
帝人が頷くと、臨也は嬉しそうに笑った。
「じゃあね、帝人君」
最初の言葉通り、臨也はここで別れるつもりらしかった。
「大丈夫なんですか?」
小声で尋ねる帝人に、臨也がゆるりと笑みを作った。
「大丈夫だよ。ああ、そうだ、俺は死んだってことにするから、葬式とかあると思うけど、驚かないでね」
「あ、あの」
再び去ろうとした臨也を、帝人は反射的に呼び止めた
「何?」
ポケットに両手を突っ込み、臨也は小首を傾げた。帝人は唾を飲み込み、思い切って言葉を吐き出す。
「良ければ、握手とか……してもらっても……」
口に出すと何だか気恥ずかしくて、帝人の言葉は語尾に向けて小さくなっていった。臨也は面食らったようだったが、すぐに微笑を浮かべて手を差し出した。自分から誘っておきながら、帝人は躊躇いがちにその手を握った。冷たい手だった。帝人は、自分の手の平が汗ばんでいるのが気になった。
「うーん、とてもダラーズの創始者とは思えないな。……あ、マウスだこ」
臨也は、帝人の手を握ったまま見分した。
「……あの、お元気で」
親しい友人でもないのに、もう会えなくなると思うと帝人は急に寂しくなった。
「うん。有難う」
「余裕があったら、チャットにも顔を出してくださいね。待ってますから」
「うん」
臨也はそっと手を放すと、今度こそ帝人に背を向けた。帝人がじっとその背を追っていると、不意に振り返り、にやりと笑みを浮かべた。そして、あっという間に雑踏に紛れて見えなくなった。
あれから、帝人は律儀に彼の帰還を待っている。