愛しい物語の終わり
水曜日
夕暮れの雑踏で、彼らはばったり出くわした。
園原杏里と折原臨也。二人は互いを認識すると、同時にぴたりと足を止めた。
「やあ、杏里ちゃんじゃないか」
先に驚きから回復した臨也が、笑みを浮かべて気さくに声をかけた。まるで親しい様子に、杏里はぽかんと臨也を見つめた。杏里が何か言う前に、臨也はさっとその肩に腕を回し、くるりと方向転換した。すぐ目の前には、有名なコーヒーショップのチェーン店。呆気に取られていた杏里は、自動ドアの開く音で我に返った。店内に背を押し込まれた時、ようやく臨也の手を振り払った。大袈裟な動作に店内の視線が集まる。
「そんな顔しないでよ。キャラメルマキアートは好き?」
臨也は、ごく自然に店員に注文を取った。意図が分からず、杏里は慌てて首を振った。
「あ、あの、いいです」
「もう頼んじゃった。奢ってあげるから、ちょっと付き合ってよ」
いつかの夜は、臆病なほど杏里から距離を取っていた男は、今日は何も気にすることなく距離を詰めてくる。杏里さえその気になれば、切りつけることも可能な程に。杏里は内心迷った。結局、店員が二人分の飲み物をんできて、杏里は促されるままにテーブルに着くことになった。
「うん、どうやら無事みたいだ。君は今、俺を切るか切らないか迷ったんじゃないかな。それで、結局切らなかった。どうしてか教えてくれる?」
席に着いた途端、臨也は小首を傾げて杏里に尋ねた。不本意にもその向かいに座らされた杏里は、視線を逸らしつつも言葉を探す。
「……この距離なら、いつでも切れますから」
「なるほど」
臨也は一つ頷き、自分のカップに口を付けた。無言を紛らわすために、杏里も同じように飲み物に口を付ける。状況は、杏里に圧倒的に有利だった。それを理解しているのかいないのか、男は暢気に言った。
「これ、名前は良く聞くからそのうち飲んでみようと思ったんだ。うーん……美味しいのかな? こういうのって良くわからないや。どう? 美味しい?」
「……甘いです」
「そりゃそうだ」
臨也はくすりと笑うと、再びカップに口を付けた。杏里はカップで手を温めながら、その様子を見つめた。
「あの……」
杏里が、躊躇いがちに口を開いた。臨也が、表情で続きを促す。
「どうして、私を誘ったんですか? その、切られるかもしれないって分かってて……」
「どうしてだと思う?」
「……」
臨也に聞き返されて、杏里は返答に窮した。臨也は、静かに苦笑を零す。
「俺ね、もうすぐ死ぬんだ」
「え?」
思わぬ言葉に、杏里がぎょっとして顔を上げた。途端、臨也がにやりと笑う。
「あはは、引っかかった。杏里ちゃんて結構単純だね」
子供のように揶揄する臨也に、杏里はむっとして俯いた。
「でも、似たようなものかな」
臨也は、窓の外を眺めながら言った。杏里は、視線だけで臨也を伺う。
「俺ね、来週海外へ行くんだ」
告げられた言葉に驚きつつ、杏里は表情を変えないように努めた。しかし、臨也は今度は笑い出すことも無く、淡々と言葉を続ける。
「ちょっと色々あってね、日本にいられなくなっちゃった」
杏里は、言葉の真偽を確かめるように、臨也を見つめた。臨也はまだ窓の外を見つめていたが、杏里の視線に気付いて正面を向いて微笑んだ。
「来週、俺の葬式があるよ。本当さ。もちろん俺の死体があるわけじゃないが、暇だったらおいで」
臨也は、世間話でもするような口振りだった。
「……どうして私にそんなことを?」
杏里の質問に、臨也は視線を斜め上に投げた。
「うーん……偶然会ったのも何かの縁だし、ほら、君は俺が嫌いだろう? 喜ぶかと思って。あれ? 嬉しくない?」
故意に微笑む臨也に、杏里は何と言っていいか分からず沈黙した。ただひたすらに困惑する。まるで現実感の無い話だったが、男自体が現実感の無い存在だ。杏里の目から見て、妖刀に取り付かれている自分よりも、首の無い都市伝説の友人よりも、この男の存在が不可解だった。
「どちらにせよ、俺の妹が来良にいるんだ。君の耳にも届くと思うよ」
テーブルに肘を突き、臨也は杏里を見つめた。簡単に手が届く距離だった。杏里は、テーブルの上に置いていた手を僅かに動かした。どうしてかは分からないが、罪歌が妙に切りたがっているようだった。それを視界の端に捉えて、臨也は笑みを深めた。
「切りたければ、切っても良いよ。君に任せよう」
警戒する様子も、逃げる様子も無く、臨也はのんびりと言った。たった数十センチの距離に、杏里は戸惑い、躊躇う。
「あの、来週、日本を出るんですよね」
「そうだよ」
臨也は頷いた。
「本当に?」
「本当。俺はこうして自分の身を危険にさらしているだろう? ちょっとやそっとじゃない事態なんだと、想像してくれたらいいと思うよ」
臨也は苦笑を浮かべ、それから甘ったるい飲み物に口を付けた。完全に杏里から視線を外し、無防備だ。
「……だったら、いいです」
杏里は、手をテーブルの下に隠した。自然と、視線も手元に落ちた。
「本当に? こんなチャンスもう無いよ?」
臨也は、まるでそそのかすように尋ねた。しかし、杏里は俯いたまま首を振った。
「……いいです」
「そっか」
臨也は、深い溜め息を吐いた。
「あの」
「ん?」
「……お元気で」
臨也は何度か瞬き、それから軽く頷いた。
「ありがとう。形式でも嬉しいよ。……君も元気で」
にこりと笑みを浮かべると、臨也は席を立った。まだ残っているカップを、そのまま手に携えて行く。杏里は、席についたままその背を見送った。店内には、杏里の好きな音楽が流れていた。
その判断が正しかったのか、杏里には結局分からなかった。