愛しい物語の終わり
木曜日
黒沼青葉は、自宅の前まで来てぎくりと足を止めた。見覚えのある男が、門扉の傍にじっと佇んでいたからだ。すっかり日の落ちた住宅街で、その姿は異様なまでに浮いていた。両手をコートのポケットに突っ込み、俯きがちに鼻歌を歌っている。聞き覚えのあるメロディだった。
「……変質者だって通報しますよ」
青葉が仕方なしに声をかけると、男、折原臨也はゆっくりと顔を上げた。
「やあ。しばらくぶりだね、黒沼青葉君」
メロディはふつりと途切れ、臨也は三日月のように目を細めて笑った。
「来良学園だよね? 入学おめでとう」
臨也は、青葉を上から下へ見下ろしながら言った。学校帰りだった青葉は、優等生風にきっちりと制服を着込んでいる。
「入学祝なら結構です」
素っ気なく言いながら、青葉は男の様子に注意を払った。ぽつりぽつりと、通行人が二人の横を通り過ぎる。それに紛れて、野良猫が二人の傍を横切った。路上駐車の車の下に隠れていたらしい。
「そう固くなることは無いよ。別に大した用事じゃない」
臨也は寛いだ様子で、猫の尻尾を目で追った。猫は一瞬二人を振り返ったが、すぐに側溝に入り込んで見えなくなった。あつらえたような黒猫だった。
「用って何ですか」
青葉がぶっきらぼうに尋ねると、臨也は真っ暗な側溝を眺めるのをやめた。わざとらしい作り笑いを青葉に向ける。
「いやぁ、紆余曲折あってね。海外に行くことになったんだ」
「はい?」
青葉は思わず聞き返した。しかし、すぐにおおよその事態を理解し、皮肉な笑みを浮かべて見せた。
「……そりゃ、おめでとうございます」
「分かってて言ってるだろう? 嫌味だなあ」
臨也は、大袈裟に肩を竦めて苦笑した。
「良いじゃないですか、海外。この街も平和になるってもんです。個人的にも、あんたがいなくなってくれれば清々しますしね」
軽薄な笑みを浮かべ、青葉は言葉を連ねた。臨也は軽く溜め息を吐き、すっと目を細めて笑みを作った。嫌な感じの表情に、青葉は僅かに眉を寄せる。
「それでね、君に置き土産があるんだよ」
「結構です」
青葉が間髪入れずに拒絶すると、臨也はにやりと笑った。
「そう言うと思った。だから、もう渡したよ」
「何ですって?」
青葉が怪訝に臨也を見つめると、臨也は視線だけで横を指し示した。つられて視線を動かすと、先程猫が隠れていた車が停まっている。遠目ではっきりとは分からないが、運転席に誰かいるようだ。
「後々、俺の知り合いとして、黒服のおじさんたちに問い詰められたりするかもしれないけど、がんばってね」
「……死ねよ」
青葉が思わず悪態を付くと、臨也は声を上げて笑った。
「あはは! 上手く立ち回ってるつもりだろうけど、そうはいかない。先人からの教訓だ。有難く受け取ってくれ」
「今すぐ眉間撃ち抜かれて死ね」
「残念だけど、それは無理だね。俺はまだ泳がされてるんだ。俺の持ってる情報、人脈、金、全てが欲しいんだよ。人間ってのはがめついよねえ」
臨也は、狂気染みた笑いを浮かべていたが、急にスイッチを切り替えるように表情を消した。視線が青葉から外れ、じっと何かを見つめている。青葉が視線を辿ると、先程の猫が側溝から顔を出していた。
臨也は何か考えるように頷き、青葉の横を通り越して猫の傍へ歩み寄った。
「何なんですか、一体」
男の背へ、青葉は尋ねかけた。臨也はそれには答えずに地面にしゃがみこみ、猫に向けて、ち、ち、と舌を鳴らした。青葉はぎょっとし、臨也と猫を見比べた。猫は臨也に興味を示しているようだったが、青葉と目が合うと、さっと走って行ってしまった。臨也が青葉を振り仰いだので、青葉は咄嗟に目線を逸らした。
「あーあ」
臨也は残念そうに呟いて、膝に手を置いて立ち上がった。猫は遠くまで走って行ったようだった。臨也は振り返り、困惑している青葉を見て、面白そうに笑った。
「……盗聴猫計画って知らない?」
「知ってますけど、今のがそうだとでも?」
盗聴猫計画。猫にスパイをさせようという、CIAの突飛な計画だ。しかし、猫は最初の任務を達成する前にタクシーに轢かれ、計画は失敗に終わったらしい。
「あの猫、昨日も俺の回りをうろちょろしてたんだよ。まさか本物ほど手をかけてはいないだろうけど、首輪に盗聴器を付ければ、似たようなことは出来るだろう。精度は低いけど、リスクも無い。御覧のように、俺は猫を捕まえられないしね」
臨也はおどけた調子で言った。青葉は思わず車の方に視線を向けたが、臨也は笑って首を振った。
「さて、邪魔者が居なくなったことだし、話を続けようか」
「はあ」
「最近、何か変わったことは無い?」
「は?」
青葉は、瞬いて臨也を見上げた。黒い衣装の中に、白い顔だけがぼんやりと浮かんで見えた。
「最近変わったこと。何でもいいよ」
「強いて言えば、目の前に変な人がいて困ってます」
「ああ、そう」
臨也は、拍子抜けしたように肩を竦めた。
「君も怖いもの知らずなタイプだね。色々気をつけた方がいい」
「余計なお世話ですよ」
臨也は、軽く首を振った。
「ここでは俺は死んだってことにするから、来週葬儀があるんだ。君の耳にも入るだろう。眉間を撃ち抜かれるってのは無いけど、顎下からってのはありうるね」
その身を狙われているらしき男は、人差し指を自分の顎下にあて、澄ました様子で笑った。
「……大丈夫なんですか? あんたの家族とか」
ふと気が付いて、青葉は尋ねた。臨也は、僅かに目を瞠ったようだった。
「そう、だから俺は死ぬんだよ。あいつらには知らせずに行くから、万が一泣いていたりしたら慰めてやってくれよ。仲良くしてくれてるんだろう?」
「……なんか、あんた変ですよ」
青葉は何かを読み取ろうと臨也の表情を観察したが、薄暗いのではっきりとは分からなかった。
「普段と比べて、という意味なら、君はそう言えるほど俺のことを知っているのかい?」
臨也は優美に唇の端を上げた。わざと青葉が嫌がる言葉を選んでいるようだった。青葉は何かを言おうとしたが、猫がとことこと戻ってきて思わず口を閉じた。良く見ると首輪をしているようだった。黒い猫なのに、黒い首輪だ。
「……もういいです。用が済んだなら、迅速に帰って下さい」
青葉は嘆息を漏らし、臨也との会話を諦めた。
結局、黒服の連中など来なかった。