暗がりに這う
大谷との見えない刃の突き付け合いを終えて数日、ひとまずは肩の力を抜いた佐助は、確たる理由もなしに溜息をつく日を送っていた。徳川家康を討ち果たすため西軍に与しその力を借りる、それは確かに有効な手段ではあるのだが、佐助はどうにもこの軍の雰囲気に慣れることができなかった。
あの病身を抱えて暗躍する狡猾な男も厄介ではあったが、何しろ、総大将たる石田三成の怨念たるや凄まじい。闇に潜んで生き、人の生を飽くほど断ち切った忍にとっても、その男の纏う憎悪は思わず顔を顰めずにはいられないほどのものだった。
佐助としては、その黒々とした渦に少しでも主を近づけたくはない。万が一にも引き摺りこまれては堪らない。かつて過ごしていた日々、晴れ渡る空の下、じゃれ合いのような殴り合いを繰り返す大虎と若虎を呆れ半分で眺めていた日々を思えば、あまりの落差にひたひたと不安が募るのだ。
もっとも、武田の総大将である幸村自身は、案外問題なく西軍に馴染んでいるようではあった。あれ以来たびたび長曾我部と手合わせをしては顔を輝かせる。そしてそれよりもずっと頻度は少ないが、実に恐いもの知らずなことに、凶王とすら鍛練を行うこともある。佐助としては一度でも承諾を得たことが未だに信じがたい。
「ねーえ、大将はさ、総大将のことどう思ってんの?」
いまはひとり鍛練中の幸村の背へ、鳥のように傍の梢に控えた佐助が問いを落とす。
上方からの唐突なその問いに、幸村は槍を振るっていた腕を休めて視線をあげる。その額から汗がひと筋流れ、陽を浴びて光った。
「石田殿のことか。……どう、とは?」
佐助は己でも何と言えばいいものかと思いながら、言葉を続ける。
「んー、例えばあの徳川家康をさ、殺す殺すって息巻いてるじゃない。恐い眼をした恐ぁいお人だよね。……というかむしろ、それだけでしょ。総大将にしては、ちょっと、ねえ……。あの姿を見ていても、大将は何も」
「徳川殿を倒すことは容易ではない。石田殿もさぞ苦心しておられるのだろう」
佐助は主の返答に、一瞬言葉を失くした。佐助が暗に告げたのは石田三成の憎悪と復讐への否定的な姿勢であったが、幸村はそれをまったく汲み取らずに肯定を返したのだ。
「えーっと、」
思わず視線を彷徨わせた佐助が次の言葉を紡ぐよりも早く、幸村が続ける。
「俺であれば、お館様の命を狙う者――或いは命を奪う者などいたら」
幸村は焔を秘めた眼をして佐助を見据える。
「その後一分一秒とて生かしてはおかぬ」
静かに、凄まじい怒気を露わにした声音で言い放った。
そして、そのあとに寂しげにひそりと、「病相手では槍の振るいようもないが」と呟いた。佐助はほんのひと時沈黙を返したのちに、そんな主を上から見つめて呟いた。
「……あんたもやっぱり恐いお人だよ」
「当然のことではないか」
心外だという顔を向けた主に対して、佐助は従順に頷いた。
「まあね」
そうだね。
例えそれで日の本全土が泰平を迎えるのだとしても。
そうだね、あんたは、許しはしないよねえ。
そうと認識した途端に、ああしくじったな、と佐助は小さく後悔した。
状況が違う。信仰に近しい敬意を向ける相手が違う。武田信玄であれば、そもそも、悪戯に国を危うくさせるような選択はしまい。わかってはいたが、それでも佐助は認めてしまった。
似た魂を持つ二人だ。真っ直ぐで、純粋で、ゆえに歪みもする。
幸村と凶王の違いは歴然なようで、もしかしたら紙一重なのかもしれなかった。
そう思ったこの瞬間から、佐助の中からつい先程まで抱いていた凶王への抵抗が朝露のように消えてなくなってしまった。そして怨嗟の刃を振るうほかは何も求めない王のため、黒い策略に没頭するあの男にすら、何かいじらしさのようなものすら感じてしまってひそかに笑う。己も大概、単純だ。
あんたもひょっとして、健気なんじゃあないの。
言われた言葉を内心で返して、佐助は再び鍛練を始めた主の、幼さの少なくなった横顔を見つめ続けた。