through the looking glass
村の外れに立つ椎の老木にはこどもがひとりちょうど入れるくらいの大きな洞が空いていて、中には栗鼠が住んでいる。炙った栗鼠の肉は小骨が多い上にとんでもなく獣臭かったからとても食べられたものではなかったのだけれど、それでも思い出すと少年はごくりと喉を鳴らした。すると成長途中のぎしぎし痛む骨格までがつられて震えたような気がした。なんにしろそれは食べられる肉だったのだ。明日食べられるかどうかもわからないくせに少年の身体は執拗に伸びるよすがを見つけようとして、ときどき痛みで眠れない夜すら訪れた。
しかし兎に角、今は手の中に食べ物があった。いつもの硬いパンと食料品店からくすねたピクルスとチーズと欠けた水差しがひとつ。袋代わりにそれらを包んだ上着の中で揺らしながら少年は走って、走って、辿り着いた椎の木の洞を前にしてどっかと腰を下ろした。
しばらくの間、空を仰いで息を整えて。
「なあ、ルカ」
沈黙。
「どうしたの、そんなに黙りこくっちまってさ」
沈黙。
「心配したんだ、何時までも戻ってこないんだもん」
沈黙。
「だから、黙ってたらわかんないってば」
やはり洞は静まりかえったままである。少年は大きく息を吐いて、上着の包みを広げた。ピクルス特有のさわやかなにおいが鼻につき、途端に口の中で唾液が湧いたのですかさず既に割ってあるパンを差し出した。
「ほら食いなよ。おれ今日はがんばってきたんだから。パンはとっといたやつだけど、チーズはチーズ小屋から試食ナイフ使ってちゃんとばれないように取ってきたし、ピクルスも樽が開いてるの見計らってかっぱらってきた。食わないと元気出ないぞっ」
それでやっと、薄汚れたこどもの手が突き出されて、少年はいくぶんか表情をゆるめた。自分のためによりわけることも忘れていそいそと食べ物を洞の中へと押し付けていく。はじめはこどもが食べているのかどうかもわからなかったのが、空腹と押し付けてくる少年の手に負けたのか、やがてぺちゃくちゃと遠慮もなにもない咀嚼の音が聞こえるようになり、少年は小さく微笑んだ。
「あんまり急ぐな。詰まらせたら大変なんだから」
「ん、うん。……おにぃも、食べなよ、むしゃ」
「食べてるよ」
言いながらチーズを一切れ頬張る。
「水汲んでこようか」
「ううん、いい。もうおなかいっぱい」
「遠慮しない。まだまだあるんだから、ほら、ほら」
「ほんとにいっぱいなんだってばあ。それよりおにぃがーー」
少年の手元を確かめようとこどもは身を乗り出して、
「あ、」
「あ、こらルカっ」
一瞬目を見張ったあとすぐに眉を寄せて洞の暗がりに引っ込んだ。
「元の木阿弥……」
こどもを見失ったのは黄昏時で、そのとき少年はまだパンしか持っていなかった。農閑期にこれ以上を望むのは難しいから、いっしょに夕食にして水をたらふく飲んでから早く寝てしまおう。考えていたのにこどもはいっこうに見つからず、焦って村中を駆け回っているうちにチーズとピクルスが手に入り、何回が怒鳴り声や蹴りや棒で追い払われて、見つかったのはよかったもののなぜかこどもはひどく拗ねていて目も合わせてくれない。
折角食べ物で釣れたのに、思いながら手元に残ったパンをやけになって頬張る。
「あーあ、お腹いっぱいになったら、なんだか眠くなってきちゃった」
「………………」
「もう寝にいかなきゃなあ。そりゃあルカひとりだったらここでもいいけど、おれはもう入れないから、いつもの納屋じゃないとな。でも、ルカとくっついて眠れないのはさびしいし、いつもより寒いんだろうなあ」
こどもがなにか小さくつぶやいた気がして少年はちらりと視線を投げ入れたけれど、沈黙の気配はますます濃くなるばかりである。少年もそろそろ耐え切れなくなっていた。もとより気の長いたちではないのだ。
「ねえ、ルカ。そろそろ出てきなよ」
「やだ」
「なら、せめてなんでそんなところにこもってるのかだけでもおにぃに聞かせて欲しいな」
「いやだったらっ!」
キンキン響くわめき声に思わず耳を抑えた。と、今度はかすかに息を飲む音がやけにはっきりと聞こえ、少年は身を乗り出した。闇の中で容易く探り当てたやわらかな両手はいつになく冷え切っていて、自然、眉を顰めた。ずっとここにいたんだろうか、と思った。いやいやするように少年の手から逃れるべく身をよじるこどもを抑えて外へ引っ張り出そうとするものの、予想以上に強い力で指を払われて身を固くする。
けれど次の瞬間、弟は自分から洞を飛び出して兄の肩口にしがみついていた。
耳元で鼻を啜る音がして。
「あいつらっ、が」
「あいつら?」
「あの小川のところで」
肩を掴む指に痛いほどの力が込められ、 いったい弟はどこにこんなエネルギーを隠していたんだろうと兄は訝しんだ。
「あにぃなら、綺麗な顔してるから、これから代わりになるだろうってーー」
「……へえ、」
予想に反してこどもは泣き出さなかったので少年はほっとして小さな背中をぽんぽん叩いた。そうしながら、安心させてやるようにわざと声を立てて笑った。すると自分のふるえがほんのちょっぴり誤魔化せたような気がして、念のために思い切り深呼吸をしたあとでいかにもおかしそうな、それでいてどこか真面目さの残った声を出した。
「なぁんだ、そんなことか」
「……うん、そう言ってたんだ」
「ルカは意味が分かったの?」
首筋に髪が当たったのがくすぐったくて少年はまた笑う。こどもは頭を横に振ったらしい。
「ルカはおれが綺麗だって思う?」
「そんなわけ、ない!」
「ならそんなのはぜんぜん大したことじゃないよ。それより喉乾いたよね。水飲みたい?」
今度は頷いた。
「今夜、あにぃと一緒に寝てくれる?」
これにも頷かれた。
「しゃあ、先に行ってて。おれは水を汲んでくるから。ひとりでだいじょうぶ?」
聞いたときにはこどもはもう少年を解放してでたらめな歌を喚きながら走り出していた。後ろ姿をしばらく見守ってから少年もまた踵を返した。
小川までは走ればすぐだった。
(ずっと、あそこにいたのかな)
村はずれの、森への入り口に小川は流れている。闇の中ばかり見つめていた少年の目にはもう眩しいほどに月が輝いて水の流れを照らし出していた。月は満月、さざ波の先がときどききらきらするけれど、小川の流れはあくまで静かである。だから少年の姿はそこに野の花と一緒になって映し出されていた。野放図に伸びた髪と薄汚れた痩せこけた頬。それでも少年は水差しで水鏡が破れていくつものきらきら輝くさざ波になるまで水面を掻き混ぜていた。満月の下でいつまでもいつまでもそうしていた。
*
鏡の中の少年は美しかった。
しかし兎に角、今は手の中に食べ物があった。いつもの硬いパンと食料品店からくすねたピクルスとチーズと欠けた水差しがひとつ。袋代わりにそれらを包んだ上着の中で揺らしながら少年は走って、走って、辿り着いた椎の木の洞を前にしてどっかと腰を下ろした。
しばらくの間、空を仰いで息を整えて。
「なあ、ルカ」
沈黙。
「どうしたの、そんなに黙りこくっちまってさ」
沈黙。
「心配したんだ、何時までも戻ってこないんだもん」
沈黙。
「だから、黙ってたらわかんないってば」
やはり洞は静まりかえったままである。少年は大きく息を吐いて、上着の包みを広げた。ピクルス特有のさわやかなにおいが鼻につき、途端に口の中で唾液が湧いたのですかさず既に割ってあるパンを差し出した。
「ほら食いなよ。おれ今日はがんばってきたんだから。パンはとっといたやつだけど、チーズはチーズ小屋から試食ナイフ使ってちゃんとばれないように取ってきたし、ピクルスも樽が開いてるの見計らってかっぱらってきた。食わないと元気出ないぞっ」
それでやっと、薄汚れたこどもの手が突き出されて、少年はいくぶんか表情をゆるめた。自分のためによりわけることも忘れていそいそと食べ物を洞の中へと押し付けていく。はじめはこどもが食べているのかどうかもわからなかったのが、空腹と押し付けてくる少年の手に負けたのか、やがてぺちゃくちゃと遠慮もなにもない咀嚼の音が聞こえるようになり、少年は小さく微笑んだ。
「あんまり急ぐな。詰まらせたら大変なんだから」
「ん、うん。……おにぃも、食べなよ、むしゃ」
「食べてるよ」
言いながらチーズを一切れ頬張る。
「水汲んでこようか」
「ううん、いい。もうおなかいっぱい」
「遠慮しない。まだまだあるんだから、ほら、ほら」
「ほんとにいっぱいなんだってばあ。それよりおにぃがーー」
少年の手元を確かめようとこどもは身を乗り出して、
「あ、」
「あ、こらルカっ」
一瞬目を見張ったあとすぐに眉を寄せて洞の暗がりに引っ込んだ。
「元の木阿弥……」
こどもを見失ったのは黄昏時で、そのとき少年はまだパンしか持っていなかった。農閑期にこれ以上を望むのは難しいから、いっしょに夕食にして水をたらふく飲んでから早く寝てしまおう。考えていたのにこどもはいっこうに見つからず、焦って村中を駆け回っているうちにチーズとピクルスが手に入り、何回が怒鳴り声や蹴りや棒で追い払われて、見つかったのはよかったもののなぜかこどもはひどく拗ねていて目も合わせてくれない。
折角食べ物で釣れたのに、思いながら手元に残ったパンをやけになって頬張る。
「あーあ、お腹いっぱいになったら、なんだか眠くなってきちゃった」
「………………」
「もう寝にいかなきゃなあ。そりゃあルカひとりだったらここでもいいけど、おれはもう入れないから、いつもの納屋じゃないとな。でも、ルカとくっついて眠れないのはさびしいし、いつもより寒いんだろうなあ」
こどもがなにか小さくつぶやいた気がして少年はちらりと視線を投げ入れたけれど、沈黙の気配はますます濃くなるばかりである。少年もそろそろ耐え切れなくなっていた。もとより気の長いたちではないのだ。
「ねえ、ルカ。そろそろ出てきなよ」
「やだ」
「なら、せめてなんでそんなところにこもってるのかだけでもおにぃに聞かせて欲しいな」
「いやだったらっ!」
キンキン響くわめき声に思わず耳を抑えた。と、今度はかすかに息を飲む音がやけにはっきりと聞こえ、少年は身を乗り出した。闇の中で容易く探り当てたやわらかな両手はいつになく冷え切っていて、自然、眉を顰めた。ずっとここにいたんだろうか、と思った。いやいやするように少年の手から逃れるべく身をよじるこどもを抑えて外へ引っ張り出そうとするものの、予想以上に強い力で指を払われて身を固くする。
けれど次の瞬間、弟は自分から洞を飛び出して兄の肩口にしがみついていた。
耳元で鼻を啜る音がして。
「あいつらっ、が」
「あいつら?」
「あの小川のところで」
肩を掴む指に痛いほどの力が込められ、 いったい弟はどこにこんなエネルギーを隠していたんだろうと兄は訝しんだ。
「あにぃなら、綺麗な顔してるから、これから代わりになるだろうってーー」
「……へえ、」
予想に反してこどもは泣き出さなかったので少年はほっとして小さな背中をぽんぽん叩いた。そうしながら、安心させてやるようにわざと声を立てて笑った。すると自分のふるえがほんのちょっぴり誤魔化せたような気がして、念のために思い切り深呼吸をしたあとでいかにもおかしそうな、それでいてどこか真面目さの残った声を出した。
「なぁんだ、そんなことか」
「……うん、そう言ってたんだ」
「ルカは意味が分かったの?」
首筋に髪が当たったのがくすぐったくて少年はまた笑う。こどもは頭を横に振ったらしい。
「ルカはおれが綺麗だって思う?」
「そんなわけ、ない!」
「ならそんなのはぜんぜん大したことじゃないよ。それより喉乾いたよね。水飲みたい?」
今度は頷いた。
「今夜、あにぃと一緒に寝てくれる?」
これにも頷かれた。
「しゃあ、先に行ってて。おれは水を汲んでくるから。ひとりでだいじょうぶ?」
聞いたときにはこどもはもう少年を解放してでたらめな歌を喚きながら走り出していた。後ろ姿をしばらく見守ってから少年もまた踵を返した。
小川までは走ればすぐだった。
(ずっと、あそこにいたのかな)
村はずれの、森への入り口に小川は流れている。闇の中ばかり見つめていた少年の目にはもう眩しいほどに月が輝いて水の流れを照らし出していた。月は満月、さざ波の先がときどききらきらするけれど、小川の流れはあくまで静かである。だから少年の姿はそこに野の花と一緒になって映し出されていた。野放図に伸びた髪と薄汚れた痩せこけた頬。それでも少年は水差しで水鏡が破れていくつものきらきら輝くさざ波になるまで水面を掻き混ぜていた。満月の下でいつまでもいつまでもそうしていた。
*
鏡の中の少年は美しかった。
作品名:through the looking glass 作家名:しもてぃ