崖っぷちの愛
「あ、あのー、佳主馬くん?」
「なに」
なんだか、妙に既視感のあるやりとりだ。
体勢といい、そして互いが口にした言葉といい。そう思ったのは、おそらく佳主馬だけではないだろう。
「えと……なんか、つい最近もこんなこと、あったような?」
またしても床へと仰向けに転がって目を白黒させている健二もなにかを感じたのか、微妙に首をひねっている。今回は顔の両側についた腕に閉じこめられているわけではなく、その肉づきの薄い腹の上に佳主馬ひとり分の体重を乗せる羽目になっているという差はあるが、それはもう些細な違いといっても差し支えないはずだ。
「あったね」
「こ、今度は一体何があったんでしょうか」
佳主馬を見上げてくる瞳は、相変わらず情けない。
まあ、昼寝から目が覚めた途端に腕を引っ張られ、そのまま納戸に連れ込まれたあげくにこんな状況に陥っている健二の立場を思えば、比較的落ち着いているほうかもしれないが。
「なんで敬語なの」
「だ、だって」
とりあえず本題は脇に置いて疑問に思ったことを尋ねてみたら、要領を得ない反応が返ってきた。
それでも、その場から逃げようとはしていない。手足をばたつかせているわけでもない。おとなしく佳主馬の下敷きにされたまま、ただせわしなく目だけを瞬かせている。
(気が弱いのか図太いのか、本気でわかんないな)
事態を理解していない、というのがいちばん近い気はした。
「だって、なに」
目をすがめて見下ろせば、健二はもごもごとなにかを言いよどむ。それでもそのうち突き刺さる強い視線に負けたのか、佳主馬を腹の上に乗せたまま床に肘をつき、中途半端に上半身を起こした。
まるで腹筋でもやっているかのような不思議な体勢になった健二の目線が、ちょうど佳主馬と同じくらいになる。
身長の差を今さらのようにまざまざと見せつけられた気がして、佳主馬の眉間についしわが寄った。
──面白くない。
「佳主馬くん、なんか怒ってるから」
「……べつに、怒ってない」
タイミングがいいのか、それとも悪いのか。困っているとしか表現しようのない笑顔で、健二がそんなことを口にする。
怒っているわけではなかったが、むっとしていたのはたしかなので、佳主馬は微妙に健二から視線を逸らす羽目になった。
そう、怒ってはいない。身長の差、すなわち歳の差を見せつけられた気がして機嫌が悪くなったのは事実だけど、それとこれとは別だ。大体、元から怒っていたわけじゃない。
ただ、悔しかっただけだ。
たぶん。
「え……そ、そう? じゃあ、どうしたの? なにかあった?」
逸らした視線に合わせるように首を傾げて、健二がそう聞いてくる。その瞳に紛れもない心配の色を見つけてしまった佳主馬は、もともと鋭かった目付きをさらに鋭くして右手を伸ばした。
行き着いた先は、健二が着ているシャツの胸元。力を込めてぐいと手前に引っ張れば、腕だけで上半身を支えていた健二の身体がバランスを失ってよろめく。
「あわわわっ!?」
「だから、意味わかってる?」
「へっ? あの、だから、なんの?」
改めてもう一度本題を提示すれば、またしても健二が目を丸くした。
胸元を掴んで引き寄せたその顔は、佳主馬の目と鼻の先にある。これだけ顔が接近していても、やはり健二が動じる気配はない。これ以上ないほどに驚いてはいるものの、それだけ。
その様子に、佳主馬はずっと胸に抱いていた疑念を確定事項とすることにした。
「僕がお兄さんのこと、好きだって意味」
目の前の顔を睨みつけながら言うセリフではないとは思いつつ、も。
どう考えても、その根本的な部分を理解されていないとしか思えなかったので。
「いや……さすがにそれは、今さら誤解する方が難しいかなって……」
「嘘ばっかり」
健二が情けない笑みを浮かべるが、それを素直に聞き入れるつもりなんてない。
「わっ?」
空いていた足で、佳主馬は床についていた健二の両肘を払う。それと同時にシャツを掴んでいた右手を離せば、支えを失った健二の頭がそれはもう勢いよく床にぶつかった。
「ぎゃっ!? い……い、痛いよ、佳主馬くん……」
佳主馬も、痛そうだとは思う。ごん、と。かなり、鈍い音がしていた。
だからって、上目遣いで見上げないで欲しい。しかも涙目で。
でも、手加減するつもりは毛頭無い。
思いっきり床にぶつけた後頭部をさすろうと動いた健二の右手を片手で掴み、その動きを封じてから上体を前へと傾ける。
今度は、健二の顔を真上から見下ろすことになった。
「だって、健二さんみたいな人がこんなに動じないなんて、おかしい」
「な、なんの話?」
なにしろ目の前にいるのは、夏希にキスされた直後に鼻血を噴いてぶっ倒れた人だ。しかも、あれは頬にだった。決して、唇同士が触れ合ったわけではない。
たしかに佳主馬はまだキスしてみようとしたことはないし、そもそも性別は男だ。夏希と同列で考えてはいけないのはわかっているが、そういった意味では夏希よりも先手を打っている。少なくともどうしたいのか、どんな感情を健二に対して抱えているのか、全部すでにぶちまけてしまった。
健二が、それを正しく理解していたら。
佳主馬が必要以上にくっついて回ったり、膝の上に乗ってみたり、ましてやこのように押し倒しているとしか思えない行動に出たときに、もう少し逃げ腰になってもいいはずだ。
というか、ならないほうがおかしい。そもそも、健二は夏希が好きなはずなので。
……と、ここまで考えて、佳主馬はひとつの可能性に気づいた。
じつに、面白くない可能性。というか、事実。
「……ああ、僕相手だとそういう気持ちがないから、気にならないってことか」
「へ? そういう気持ちって、なに」
「夏希姉ぇのことは恋愛対象として好きだけど、僕は違うってことだよね」
「は?」
「だから。夏希姉ぇにキスされたら鼻血噴いて倒れるけど、僕にこうやって押し倒されても、全然気にならない、と」
「ええっ!? そっ、そういうわけじゃなくて!」
佳主馬の言葉の何に反応したのか、健二は慌てて上半身だけ起きあがろうとする。が、間近に佳主馬の顔が迫っていることを思い出したのか、またしても首を中途半端に持ち上げただけの、じつに不自然な体勢で固まった。
(どうせなら、そのまま勢いよく起きあがってくれればいいのに)
そうしたら、はずみでキスできたかもしれない。健二の顔は今でも目と鼻の先にあるから、それくらいの偶然は狙えた気がする。
(まあ、その前に頭がぶつかって、健二さんがまた撃沈するのがオチかな)
──そう考えると、先ほど派手に後頭部をぶつけていたことだし、前頭部にまで衝撃を与えるのは可哀相かな、という気にもなってきた。
数学を得意とする健二にとって、脳細胞は大切なもののはずだ。
ここで無闇に減らしてしまうのは、さすがに良心が咎める。
でも、それとこれとは話が別だから。
「じゃ、どういうわけ」
好きすぎてどうかなりそうな相手の上へ馬乗りになったまま、佳主馬は強さを込めてじっと健二の目を見下ろした。