崖っぷちの愛
さすがに、健二が自分を好きでいてくれることくらいはわかる。そうでなかったら、さすがに佳主馬を最優先にして構ってはくれないだろうし、そもそもここまでべったりとついて回られたら不審に思うはずだ。それがないということは、それどころか少し照れ顔を見せるだけですべて許容してくれるということは、かなり好かれているのだと思う。
ただ、悲しいことに『好き』の種類というのはいろいろあるもので。そこに佳主馬が本当に欲しい種類の『好き』が含まれているとは、どうひいき目に見ても思えなかった。
少しでも含まれているのなら、鼻血とは言わないまでも、もう少し赤くなったり狼狽したりするはずだ。
……と、佳主馬は判断したのだけど。
「え……いや、だって……嬉しかった、し……?」
「…………」
なぜかもごもごとそんな言葉を口にして、健二はふにゃりと笑った。
(なんなの、この人)
妙に幸せそうに見えたのは、気のせいか。どうでもいいが、不必要に期待させるようなことはうかつにやらないで欲しい。
笑み崩れているすぐ真下にある顔、特に鼻のあたりにかみついてやりたい衝動を堪えながら、佳主馬は心の中でそう思う。
これはやはり、弟みたいな相手と思われている、ということだろうか。
どう見ても、恋愛方面には疎い健二のことだ。記憶力は悪くないはずだから佳主馬の言葉は覚えていてくれているのだろうけど、それが感情として理解できていないのかもしれない。
(自分だって、夏希姉ぇのこと、そういう意味で好きなくせに)
それに当てはめて考えてみればいいだけ、なのに。
もし健二がそうやって考えてしまったら、もうこうやって子どものわがまま全開で押し通すこともできなくなってしまうかもしれないけど。
──でも、やはり自分の感情をちゃんと理解されていないのは癪で。
佳主馬はため息をつきたくなる気持ちを抑えながら、口を開く。
「あのさ、健二さん。この間も言ったけど、僕は年上の優しいお兄さんに懐いてるってわけじゃないから」
「そ、それはわかってるよ!」
それがそもそも信じられない、と言いかけて。
「だから、その……僕はたしかに夏希先輩のことが好きだと思うけど、でもなんというか……佳主馬くんがほんとに僕を好きでいてくれるのもわかるから、そう思うとやっぱり佳主馬くんが可愛くて、応えてあげたいなって気分になっちゃって」
「…………」
慌てた様子で続けられた言葉に、佳主馬は一瞬言葉を失った。
(なに言ってんの、この人)
つまりそれは、どう受け取ればいいのか。都合良く解釈しようとすればいくらでもできるが、どう考えても聞き捨てならない単語も混じっていた気がする。
それでも十三歳の身体は意外と正直で、一連の流れに含まれていた単語のいくつかに反応して、つい心が跳ねた。それは、間違いない。
だから、きっとそのせいだ。今、冷静な思考ができないのは。
──まばたきすらできずに、佳主馬はじっと真下にいる人の顔を見つめてしまう。
その視線を健二がどう受け取ったのか、佳主馬にはわからない。
ただ。
「ええっと……あー、ど、どう言えばいいのかな。うう……あ、そうだ」
押さえていなかったほうの健二の腕が、ふいに佳主馬の後頭部へと伸びてきて。
そっと添えられた手のひらに、少し押されたと思ったら。
「…………え」
次の瞬間、ちゅ、と軽い音を立てて。
──頬に柔らかい感触が、触れた。
「ええっと……これじゃ、ダメ?」
「…………」
いつのまにか近づいていた、誰よりも好きな人の顔。
少し困ったような、でも照れたような、そんななんとも表現しがたい笑みを浮かべて、佳主馬を見ている。
──不覚にも、固まった。
あまりにも、予想外で、
「あのー、佳主馬くーん?」
上体を傾けて前屈みになっているとはいえ、馬乗りになっている佳主馬の頬に口づけた健二は、腕一本で上半身を支えるというけっこう無茶な体勢をしている。
そういえば意外と力はあるのだった、この人は。
ラブマシーン騒動のとき、全力で翔太に殴りかかろうとした自分を止めたのは、そういえば健二だった。
──そして、ようやく凍りついていた思考が繋がる。
今の、健二の行動。そして、先ほどの言葉。
導き出される結論は、ひとつ。
「……わかった」
「へ……うわっ!? 痛っ!!」
両手に力を込めて、健二の肩を押す。またしても後頭部が床に激突する鈍い音が響いたが、もうこの際気にしない。
一応、座布団でも引いておいてやればよかったと思わないでもなかったが、そんなことに気を回せる余裕なんて、もともとどこにもなかった。
「健二さんがとっても流されやすいってことは、よくわかった」
「へっ!?」
指で、健二の唇に触れる。
先刻、佳主馬の頬に触れたところ。される分には鼻血を噴くが、健二自身がする分には大丈夫なのか。冷静に、そんなことを考えた。
納戸の引き戸は閉めてある。あいにく鍵はかからないが、引き戸が閉まっているときにここへ足を踏み入れる人間はあまり多くない。それに、家人はほぼすべて出払っていることを、先ほど佳主馬は確認している。最後まで家に残っていた夏希と母親である聖美も、健二が起きる前に買い物へ出かけていた。
こんなチャンスは、なかなかない。
「つまり」
「か、佳主馬くん?」
目を丸くして自分を見上げてくる健二に向かって、佳主馬は笑みを落とす。
間違っても、年相応には見えないほど。
口の端をわずかに上げて、凄艶に。
どうせ、流されやすいのなら。
この機会、逃しはしない。
「先手必勝ってこと、だよね」