崖っぷちの恋愛
まったくもって自慢にはならないが、キスなんて生まれてこのかたしたことがなかった。
この間、夏希にされたあれが最初で最後だ。キスされた場所は唇ではなく頬だったが、それだって正真正銘初めてだ。小磯家はごくごく普通の日本家庭だったので、家族同士で額にキスだの頬にキスだのは今まで一度もやったことがない。より正確に表現するのなら、どちらかといえば一般的な日本家庭以下のスキンシップしかしてこなかった。
それに加えて、健二は自他共に認める超絶奥手だ。たとえしたことはなくても知識くらいあるだろうと言われれば、否とは言えないが自信を持って首を縦に振ることもできない。むしろ、すでに据え膳を一度目前で蹴り飛ばしている身だ。鼻血を出してぶっ倒れたなどと、佐久間に知られたらどれだけ笑われることか。──まあ、どうせすぐにバレるのだろうが。
だから、それっぽい雰囲気なんて少しもわかりはしないし、もしかしてと思ったところですぐに「そんなはずあるわけない」と勝手に脳が否定する。そういうことには、あまりにも不慣れなのだ。夏希に白状した、「女の人と付き合ったことがない」というある意味情けない事実はダテじゃない。
ただ、今日ばかりは。
(バカか、俺)
自分のその天然記念物並の鈍さに、健二は怒りを抱きそうになっていた。
自分ではない他人の気持ちを察するのは、健二にはかなり難しいことだった。だが、それを言い訳にしていてはいけないのだ。
佳主馬は今まで、自分にまっすぐ気持ちをぶつけてきてくれていた。
それに対して、今まで一度もわかりやすい応えを返していなかった自覚は、ない。
──否、なかった。
今日までは。
「…………っ」
キスなんて、今日までしたことがない。初めて唇と唇を触れ合わせたのだって、ほんの数分前のことだ。
やり方なんてもちろん知らなかったけど、それでもなんとかなるものだということはたった今知った。唇を触れ合わせるだけの軽いものだけではなく、舌を絡ませあうことでもっと深く繋がれることも知った。
「……けん、じ、さん?」
佳主馬はまだ、健二のシャツをつかんだままだった。その手が、小刻みに震えている。
それが恐怖や寒さのためではないことくらい、さすがの健二にもわかった。
「そうだよね、ちゃんと言ってなかったよね。ごめん、佳主馬くん」
健二の上に乗っている小さな身体は、両腕を回せばすっぽりとその内に収まってしまう。いくらOMCのチャンピオンで、そして大人顔負けの強さを誇ってはいても、やはりまだ佳主馬は子どもで。
不安にだって、なるだろう。冷静さの仮面をかなぐり捨てて、がむしゃらになにかを求めることだってあるだろう。そんな子どもらしいところを佳主馬の中に見つけるたび、健二は彼から目を離せなくなる。
それに、佳主馬は健二のことが好きだと、まっすぐにその気持ちをぶつけてきてくれる。ためらいなど、少しもありはしない。
その居心地の良さは、格別で。
いつしか、手放せないものになっていた。
──なぜなら、健二の気持ちも、とっくの昔に佳主馬のほうを向いていたから。
「僕のファーストキス、佳主馬くんだから」
「……うん」
真っ黒な髪を優しく撫でれば、おずおずと健二の背中に佳主馬の細い腕が回る。ぎゅっとしがみついてくる小さな身体が、愛おしい。
肩口に顔を埋めると、腕の中にある身体がくすぐったそうに身じろぎした。
「佳主馬くんのは?」
「……言わなくてもわかるだろっ!?」
耳元でささやくように問いかければ、怒ったような答えが返ってくる。なにそんなこと聞いてんの、信じらんないと、ブツブツ小声で呟いていたらしい文句まで聞こえてきた。
(かわいいなあ)
さっきは平然とした顔でそれ以上のことをしようとしてきたくせに、今はこんな些細なことで恥ずかしがっている。そのギャップが、また面白い。
ただ、あそこまで佳主馬が思い詰めたのも健二が態度をはっきりさせなかったせいかと思えば、さすがに罪悪感が募るのだ。
佳主馬がいくら聡いからといって、甘えすぎてはいけないということだろう。そんなことを今頃学習する自分自身に呆れると同時に、佳主馬のすごさに思わず感心する。
誰よりも、大切にしたかった。
だから今は、こうやって腕の中で抱きしめるだけでいい。それを許してもらえるのなら、それ以上の幸せはない。
「えええ。聞きたいなあ」
「……健二さんだよ、決まってる」
それは耳を澄まさなければ聞こえないほどの、小さな小さな声だったけど。
「うん」
健二の心には、どんな音よりも大きく、響いた。
end.
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終始話題が話題なのに、まったくもって色気がなさすぎてすみません。
ケンカズ襲い受け……になれたかな……。
気持ちだけはケンカズの佳主馬襲い受けです。R15にも至ってないので、あまり意味ないっちゃないんですけどね。と、自分で自分を慰める。