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浸食する毒

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胡散臭い、というのは、はて、どんな匂いなんだろうか。



「匂い」をあらわす表現は、日本語を駆使すれば山と見つかる。
甘い匂い、焦げ臭い、すえた、つんとくる、エトセトラエトセトラ。帝人は目の前で胡散臭い微笑を浮かべている男を見上げて、この人はどれだろうなと考えた。
現実逃避だ。認めよう。
帝人を閉じ込めるように顔の両側に置かれた手、相変わらずのコート、食えない表情、つりあがった唇の端。それらを視線でなぞるように見詰めて、息を吐く。
しいて言うなら、この人からは危険な香りがする。
脳髄まで侵食されそうな、たちの悪い香りが。嗅覚的な意味ではなく、直接神経に働きかけるような類の意味で。
「・・・どいてくれませんか」
「やだね」
でしょうね、とは言わず、もう一度大きく息を吐く。
良くぞ今まで逃げ切れた、と自分に喝采を送るべきか。それともここまで逃げたらいっそ最後まで逃げ切れよ、と悪態をつくべきなんだろうか。どちらにせよ、大失敗だった。最悪だ、捕まった、折原臨也に。
「・・・聞かせてもらおうか」
冷たいコンクリートに押し付けられた背中が、低いその声に微かに震えた。冴え冴えとした臨也の瞳がまっすぐに帝人を射抜く。


「どうしてここまで俺を避けたのか、是非知りたいなあ、帝人君?」


非常に楽しげな口調だったけれども、全然、顔が笑ってない。目の前数センチのところにある臨也の目が、獲物を捕らえる肉食獣のごとく光ったような気がした。
確かに、帝人はこの人を避けていた。
そりゃもう避けて避けて避けまくった結果が今だ。こんなことならば適度に相手をしていればよかったと今更思うけれど、きっとできなかっただろうなとも思う。正臣が関わるなと言ったからではなく、むしろそれは帝人の本能が「捕まったら終わりだ」と告げていたからだ。
獰猛な肉食獣を思わせる視線からわずかに視線を逸らし、帝人はいかにしてこの状況を打破できるかと考える。徹底的に避けておけば、そのうち飽きて興味をなくすだろうと思っていたのが甘かったらしい。
むしろ臨也は、逃げれば逃げるほど追いかけてきた。
「だんまりは良くないよ帝人君、実に良くない」
「・・・えっと、」
「ああ、あとついでに言い訳もいらない」
言わなくてもわかってるだろうけど、と臨也が意地悪そうに笑った。
そもそも、初めて会ったそのときから、この人には近づいちゃいけないと帝人の本能が告げていたのだ。近くに寄ると大変なことになる、絶対にだめだ。臨也の中に欠片も残らぬように徹底的に逃げて、ただその記憶から自分が抜け落ちる日をひたすらに待っていた。
だと、言うのに。
最初は簡単に逃げ切れた追いかけっこが、次第に長くかかるようになり、罠を仕掛けられるようになり、最後には強硬手段に出られた。学校前どころか家の前でさえ待ち伏せされるようになり、何度正臣の家に転がり込んだかわからない。
そのうちに正臣の家の前で鉢合わせしそうになること数回、ネットカフェに避難して明日はどうしようかと対策を立てる日々。確かに、もうそろそろ限界だっただろう。
そう、つまりこれはゲームだった。
自分の家に逃げ込めば帝人の勝ち、それ以外の場所で捕まれば臨也の勝ち。そういう、非常に単純で、子供だましのようなゲームだったのだ。
少なくとも臨也は当初そう思っていたはずで、だからなかなか本気を出さずに、むしろ逃げ回る帝人を笑って楽しんでいたところもあっただろう。それに対して帝人は最初の最初から本気だったので、臨也がちょっと気まぐれにやる気を出したくらいでは捕まらないのは当然だった。
帝人の計算では、そんなことを繰り返していればすぐに臨也が飽きてほかの対象へ興味を逸らすはずだったのだ。
「・・・いい加減にしてくれない?」
目の前で、イライラを隠そうともせずに臨也が舌打ちをする。
要するに帝人の勝算は、臨也が決して自分なんかを相手に本気を出さないという前提の上に成り立っていたわけで、本気でぶつかり合ったらどっちが勝つかなんて目に見えていた。
だからどうすればいいのか分からない。どうしたらいいんだ。困りきって俯いた顔を、臨也が難なく掬い上げて固定する。どうしよう言葉が無い。なんでこんな熱のこもった目で見られるのか理解できない。
「ほんっと・・・勘弁してよね、なんなの君」
目の前、数センチ。
路地裏の廃れた空気に混じる、色香のような汗の匂い。思考回路を麻痺させるような、危険な香り。
脳髄まで侵食されそうな、抵抗を忘れさせるような、たちの悪い香りだ。嗅覚的な意味ではなく、直接神経に働きかけるような、心を鷲掴みするような類の。
「いざや、さん」
放して、そう言いたかった。でも嫌だと答えられたらそれ以上のことを要求できそうにない。ならばどうすればあきらめてくれるんだろう、どうすれば、帝人の心を解放してくれるだろう。
「この数ヶ月、君のことしか考えられなかったんだけど」
「いざ、や、さ・・・」
「仕事に多大な支障をきたした、全ての責任は君にある」
「っ、知りません・・・!」
瞬きをすればそのまつげが触れるくらい近くで臨也が囁く。責任とって、と。息がかかる、めまいがするほど熱い吐息が、帝人の唇をなでる。


責任ってなんのだ。


むしろ帝人のほうこそとって欲しい、その責任とやらを。
学生の本分は勉強だ。その勉強が手につかなくなるくらい、帝人の脳裏を占拠したのは臨也だ。重大な学業妨害だ、進路に関わる。教員からの評価だって左右する。
「つまりね、帝人君。君は俺の貴重な時間を膨大な量、奪っているんだよ」
相変わらず胡散臭い微笑を浮かべて、臨也が目の前でそんなことを言っている。話すたびに唇が掠めたような気がして酷く狼狽しながら、帝人はその全く笑っていない瞳を見返す。
笑ってない、代わりに、帝人の思考回路を焼ききりそうなほどの情熱が、そこにある。
「時間ってのはほかのもので代用が聞かない。金をいくら積んだって、過去に遡って取り戻せない。つまりね帝人君、君は俺の無駄にした時間の穴埋めをしなきゃならないんだよ」
囁きは悪魔にも似て、体の奥を痺れさせる。帝人はその、なんとも奇妙な感覚をもてあまして息を呑んだ。これ以上彼の戯言を聞いてはいけない、と思うのに、耳を塞ぐことが出来そうにない。
なら、どうすれば、どうすれば、逃げられるんだ。
「ねえ帝人君、どうすればいいか分かるだろ?君の存在を使ってきっちり責任をとってくれよ。そう、例えば・・・、」
例えば?


それ以上は、聞いちゃだめだ。


硬直したように動けなかった体が、ただ、本能に突き動かされる。臨也の声は甘い毒で、うっかり耳を傾けると体の奥から蝕まれる。だかれこれ以上はだめだ。無理だ。
ただでさえ触れ合う直前だった顔と顔を、ぶつかり合わせるように体を傾けた。言葉ごと食べてしまえばいいんだ、きっと、それでなんとかなる。
唇に噛み付いた帝人に、一瞬臨也が体を硬直させるのを確認して、帝人はその腕の檻からするりと抜け出した。
ヒットアンドラン。こういうことをいうんだったっけ?わからないけどとにかく、今は。
逃げなくては。
「っ、帝人君!?」
あわてたような臨也の声を背に、走り出す。
作品名:浸食する毒 作家名:夏野