浸食する毒
逃げて逃げて逃げて、そうしてもう帝人に関わらないで欲しい、切実に。そうでなきゃ帝人は、自分が何をしでかすかわからない。臨也ならほかにいくらでも遊び相手がいるだろう。こんな、自分でも制御できない思いに焼かれることもない。
ずっと、臨也から危険な香りを感じていた。
それは嗅覚的な意味ではなく、脳髄へ浸食する毒のような、心臓ごと掴み取られるような、感覚的な意味で。それは近くで感じるほどに帝人の思考能力と危機感を奪い、感覚を麻痺させてしまうから、少しでもその感覚が芽生えたら即座に逃げることしか帝人にはできない。あの匂いに捕まったら終わる、と帝人の奥の本能が告げる。
震えるほどの非日常の誘惑、そしてそれに抵抗を続ける「逃げろ」と叫ぶ本能の両方を天秤にかけて、多分必死でそれを本能の方に傾けてきた。
だってこんなの知らない。
「帝人君!」
叫ばれる名前さえ、耳の奥をじわじわと焼くようで、嫌だ、怖い。
非日常は大好きだけど自分がその渦に巻き込まれるのは好きじゃない。ただそれを見ていたいだけだったのに、何がいけなかった。どうしてただ臨也を見ているだけじゃ終わらないんだ。
どうして、追いかけてくるんだ、あの人は。
帝人は必死になって逃げる。路地から路地へ、角を曲がって、次の道へ。
捕まったら終わりだ、今度こそ、次はない。
追いかけてくるような人じゃないと思っていたのに。どうして逃げれば逃げるほど、臨也は追いかけてくるんだろう。そんなふうに誰かに固執するような人では、決してないと思っていたのに。だから逃げたのに。
一瞬だけ触れ合った唇の温度がなかなか帝人の唇から離れていかない。臨也を構成するものは、体温さえもこんなに毒をはらんでいるのかと思うと忌々しい。あの人の毒に捕まったら、どうなってしまうのか想像がつかない。
だから逃げる、怖いから逃げる。その位察してくれてもいいじゃないか。
「・・・待てって、言ってるだろ!」
がくん、と腕を掴まれて体が傾いた。悲鳴をあげる余裕さえ無く、後ろに向けて転がる。臨也が上手く転ばせてくれたのか幸い痛みは無かったが、ざらついた砂と冷たいコンクリートの感覚がモロに背中に当たって音を立てた。
「っ、やだっ」
「やだじゃない!」
手をついて起き上がろうとした帝人の肩を押し戻して、臨也は覆いかぶさるように帝人の上半身を抑える。手のひらを思い切り握られて、抑えつけられたコンクリートの冷たさは背中の比ではない。思わず顔をしかめれば、臨也もここがビル街の小路である自覚はあるらしく、一瞬たじろいたように息を飲んだが、けれども手は放してくれなかった。
大きく息を付くその唇から目が離せなくて、帝人は泣きたくなった。
こんなの困る。
「・・・っ、なんで、ほっといてくれないんですか・・・っ!」
じわりと滲んだ涙が視界をゆっくりと染めてゆく。ああもういっそこのまま体ごと空気に溶けてしまいたい。この人から逃げられるならなんでもいい。
「なんでって・・・よく言うよね君も」
は、と小さく笑った臨也が、引きつったような笑みを浮かべた。やっぱり全然笑っていないその目が、ただ、揺るぎない熱を込めて。
「逃げられたら追いかけたくなるのが心理ってもんだろ」
「あなたは諦めると思ってました」
「あいにくと諦めるのは嫌いなんだ」
「誰かに固執するなんてアイデンティティの崩壊ですよ臨也さん」
「はは、そうだね、でも君がそれを言うなよ」
俺のアイデンティティを崩壊したのは他ならぬ君だよ?と、聞きたくない言葉をその唇が吐き出す。そんなの帝人のせいじゃないし、帝人の意志でも望みでもない。なんでそういうずるいことを言うんだろう、この人は。まるで帝人が計算ずくで臨也の意識を引いたみたいじゃないか。
「体の、芯が、溶かされそ、だから」
声が震えるのを感じて、帝人は必死に息を吐いた。そして噛み締めるように声を絞り出す。
「臨也さんの、側にいると。頭ん中、かき混ぜられる・・・っ」
訳がわからない。こんなに胡散臭いくせに、なんで帝人の心を持って行こうとするのだろう。そして帝人は、どうしてこれほど胡散臭い人間に、あっさり持って行かれてしまうのだろう。
ただ今は、焼けつくような熱を込める臨也の視線から、ひたすらに逃げたい。
逃がして欲しい。
だって臨也なら、もっと面白いおもちゃは他にいくらでもあるだろう?
懇願する帝人の涙をぺろりとその舌がなめて、臨也は余計に目をぎらつかせてひとつ、息を吐く。
「君は、本当に」
その声も微かに震えて、どこかしら二人の間を共鳴する何かが駆け抜けた気がした。
「俺を煽るのが上手い」
唇が、重なる。
「ん・・・っ、」
真冬の路地裏、砂埃と古びたコンクリートのくすんだ空気。引き倒された帝人を抑えつけて、今、その口内を蹂躙しているのは、臨也の。
うごめくその毒が、帝人の奥のほうへと染み渡って拡散する。ああ、次はないと分かっていたのにどうして捕まってしまったんだろう。ぼんやりとそんなことを思って、どこで間違ったのかと考えたけれど、麻酔にかけられたような思考回路の動きはあまりに遅く、答えがはじき出せそうになかった。
臨也のまとう、危険な香りが帝人に移る。
それは嗅覚的なものではなくて、脳髄をドロドロにとかすような、帝人の中の常識やモラルを犯して臨也の意識そのものを注ぎ込まれるような、そういう感覚的な意味で。
快楽さえ覚えるようなその毒の中、逃しはしないと絡められた臨也の指先が、帝人の意識まで絡めとってゆく。
ああ、ついに捕まってしまった。
帝人の奥の奥まで、全部。