モノクロに彩られた夢
モノクロに彩られた夢
夜の冷ややかさを纏い始めた冬の風はより一層の鋭さで頬を刺す。吐いた息が眼鏡を白く曇らせていくのをぼんやりと見つめながら、園原杏里は暗くなり始めた道に歩を進める。
かつて寄生していた彼らが見たら、暗いのに一人なんて危ないと、きっと言ったことだろう。色褪せない気遣いの言葉をひっそりと思い出し、大切に心の奥にしまう。愛を囁く妖刀さえ触れられないほど奥底に。
一人が去り、もう一人も池袋から姿を消した。その後も、杏里は一時だって彼らを忘れることはない。
誰かに寄生していないと生きていけない彼女が今でもこうして自分を保っていられるのも、彼ら、いや彼にまだ預けている心があるからだ。
心配そうな、困ったような、生来の童顔を際立たせる彼の笑い方や、照れたときに視線の逸らされる方向。一人暮らしなのにいつも整えられた、糊のきいた制服の匂い。
あの後、彼がどこへ行ってしまったのか、何を思っていたのか、知る術はもうない。それでも、池袋の非日常を見つけるたびに輝いた目の煌きと、その度に杏里を守るために前に立つ華奢な背を、忘れることはないだろう。
冬の日は短い。通り過ぎた街灯が、いつの間にか眩い光を宿していた。硬いアスファルトを踏む革靴の裏から冷気が這い上る。薄闇に沈んだ街の中、杏里は足を早めた。
その時、足早に通りすぎようとした細い路地から、何かが倒れる音と、呻き声、それを掻き消すような笑い声を聞いた。
鞄の取っ手を握る手に力を込める。かじかんだ手で、どこまで動けるかはわからない。それでも、掌から罪歌を覗かせ、杏里は足を止める。
「……」
「…やめ、…」
「もう……、あおば」
無音の内に歩み寄ろうとしていた杏里は、耳にした名前に躊躇を覚えた。動揺のためか、寒さのためか、鞄が手から滑り落ち、存外に大きな音を立てる。
びくり、と肩を震わせ、杏里は立ち止まった。背中がじんわりと汗をかく。敵わない相手ではない。傷つけられない人でもない。いっそ子供にしてしまった方が後々安全な類の人間だ。
それでも、彼がまだ笑っていた頃の記憶が、杏里の足を竦ませる。
「あれ、杏里先輩じゃないですか」
ぴかぴかと眩しい街灯の下、かつでの後輩が子どもっぽい動きで顔を出す。あの頃も、見かけほど可愛げのある性格ではななかったが。それを知ったのは、もう全てが遅すぎた時だった。
「危ないですよ。こんなところで。変な奴に襲われたらどうするんですか?」
彼女の手の中で光る物が見えていないわけではないのだろう。それにも関わらず、彼は、まるで何もなかったように、気遣いの言葉を投げかける。
かつてほど童顔でも華奢でもない彼は、今は絵筆よりも人を殴ることに慣れた手をポケットに入れる。さすがに薄手の青いパーカーでは寒いだろう。冷え切った空気に赤くなった頬は、微動だにしない笑みをたたえている。
「あなたこそ、何をしていたんですか?」
凍りついた喉を無理やり動かして、声を搾り出す。動揺を悟られないようにという意図はまるでない。いざとなれば切り捨てて子供にしてしまえる彼女にとって、恐れるものなどたった一つ、いや一人だった。
「んー、なんていうか、清掃作業、ですかね。街を綺麗にしようと頑張ってます」
いかにも「いい子」を装った笑顔を浮かべる彼に、深入りしてもいいものか戸惑った。しかし、やはり知らないふりをするわけにはいかない。
「……その人を、傷めつけることがですか?」
「あれ、見てたんですか。まあ、こいつはダラーズを汚そうとした奴なんで、仕方ないんですよ。黴菌はしっかり駆除しておかないと。掃除の基本でしょ?」
「…黴菌?」
震える声をだしながら、杏里は手の中の刃を握る。やはり、この少年は斬っておいた方がいいと思ったその時、彼女は、唯一彼女の判断を狂わせる名前を聞いた。
「だって、綺麗にしておかなくちゃ、帝人先輩が悲しむでしょう?」
赤い目を見張り、掌から滑り落ちそうな刃を握りなおして、彼女は言葉もなく続く言葉を聞いた。
「ここが汚いままだったら、先輩が帰って来れないでしょう。だからちゃんと掃除しておかないと。先輩きちんとしてないのは嫌いですから」
「竜ヶ峰くんは、もどってくるんですか」
「来ますよ。絶対。だって、非日常大好きな先輩が、親に連れ戻された位で、池袋を諦めるわけないでしょう。それに、戻ってきてくれないと、先輩は俺らのリーダーなんですから」
青葉の後ろに立つ青いバンダナの男達は、まるで痛ましいものを見るように、密かに息を吐いた。それに気づかない杏里ではなかったが、その言葉の毒に侵されて、身動きがとれない。
帰ってきてくれたら。そう思わない日はなかった。
(ああ彼も)
杏里は唐突に理解した。彼女が誰かに寄生しなければ生きていけないように、そして竜ヶ峰帝人に寄生したときから、他の宿主を見つける気になれなかったように、青葉もまた、彼に縛られている。
「先輩がもどってくるまで、俺は先輩が嫌いな物をきちんと片付けて、きれいにしてるんです。いい加減遅いですよね。でも俺ちゃんと待ってるんです」
無邪気を装った笑顔は、鮫の牙をのぞかせ、毒々しく輝く。置いて行かれた狂犬。かつての宿主の夢に縛られたまま、行き場を失った鮫。
「杏里先輩も、でしょう?」
それは、今でも何かにつけては彼を思い出す杏里とそっくりで。掌の中から刃は消えていた。
「心配しないでくださいよ。先輩がいない隙に街を荒そうなんて思ってませんから。ブルースクエアは今は池袋とダラーズを守ってるんです」
今までは素通りしてきた喧嘩もどきに、足を止めたのはなぜか。後輩だと知りつつ、斬ろうとした理由は。
「杏里先輩がやっていることと同じですよ」
彼の夢の残骸は、今でもこの街で生きている。残された人間、待ち望む人間の中で。
(愛が聞こえるわ)
彼女の中に棲む異形が囁く。
(ねえ、杏里あなたと同じ声よ。同じ言葉よ。ふふふ愛しているのね。帝人くん。帝人先輩。戻ってきてほしいのね。いつまでも待っているのね。なんて深い愛かしら。なんて愛しいのかしら。ねえ杏里聞こえるでしょう)
(戻れたら。あの頃に戻れたら。世界は完全だった。あなたは笑っていた。傷だらけで笑うあなただけが世界を完全にした。あなたがいない。それだけで、色あせた全てを眺めながら、繰り返す。あなたがやってきたこと。あなたがやろうとしていたこと。いつまでも待っている。また世界が完全になる日を。あなたがもどってくるのを)
ここは、この街は、池袋は、今や鮫の腹の中。彼を再び誘い込むための巨大な檻。
空っぽの檻の中には、今は、色を失った世界と砕け散った彼の夢の欠片が詰め込まれているだけ。
「帝人先輩が戻ってくるまで仲良くしましょうよ。俺、先輩に関しては寛容なんで、杏里先輩が帝人先輩の気持ちを受け入れる気がないうちは、俺も、杏里先輩のことは好きですよ」
否定はできない。杏里は帝人が好きだっただ、斬りたくはなかった。それでも傍にいたかった。今も待っているのかもしれない。
青葉の後ろに立っていた少年が、彼に声をかけた。
「ああ、悪い。撤収だ」
夜の冷ややかさを纏い始めた冬の風はより一層の鋭さで頬を刺す。吐いた息が眼鏡を白く曇らせていくのをぼんやりと見つめながら、園原杏里は暗くなり始めた道に歩を進める。
かつて寄生していた彼らが見たら、暗いのに一人なんて危ないと、きっと言ったことだろう。色褪せない気遣いの言葉をひっそりと思い出し、大切に心の奥にしまう。愛を囁く妖刀さえ触れられないほど奥底に。
一人が去り、もう一人も池袋から姿を消した。その後も、杏里は一時だって彼らを忘れることはない。
誰かに寄生していないと生きていけない彼女が今でもこうして自分を保っていられるのも、彼ら、いや彼にまだ預けている心があるからだ。
心配そうな、困ったような、生来の童顔を際立たせる彼の笑い方や、照れたときに視線の逸らされる方向。一人暮らしなのにいつも整えられた、糊のきいた制服の匂い。
あの後、彼がどこへ行ってしまったのか、何を思っていたのか、知る術はもうない。それでも、池袋の非日常を見つけるたびに輝いた目の煌きと、その度に杏里を守るために前に立つ華奢な背を、忘れることはないだろう。
冬の日は短い。通り過ぎた街灯が、いつの間にか眩い光を宿していた。硬いアスファルトを踏む革靴の裏から冷気が這い上る。薄闇に沈んだ街の中、杏里は足を早めた。
その時、足早に通りすぎようとした細い路地から、何かが倒れる音と、呻き声、それを掻き消すような笑い声を聞いた。
鞄の取っ手を握る手に力を込める。かじかんだ手で、どこまで動けるかはわからない。それでも、掌から罪歌を覗かせ、杏里は足を止める。
「……」
「…やめ、…」
「もう……、あおば」
無音の内に歩み寄ろうとしていた杏里は、耳にした名前に躊躇を覚えた。動揺のためか、寒さのためか、鞄が手から滑り落ち、存外に大きな音を立てる。
びくり、と肩を震わせ、杏里は立ち止まった。背中がじんわりと汗をかく。敵わない相手ではない。傷つけられない人でもない。いっそ子供にしてしまった方が後々安全な類の人間だ。
それでも、彼がまだ笑っていた頃の記憶が、杏里の足を竦ませる。
「あれ、杏里先輩じゃないですか」
ぴかぴかと眩しい街灯の下、かつでの後輩が子どもっぽい動きで顔を出す。あの頃も、見かけほど可愛げのある性格ではななかったが。それを知ったのは、もう全てが遅すぎた時だった。
「危ないですよ。こんなところで。変な奴に襲われたらどうするんですか?」
彼女の手の中で光る物が見えていないわけではないのだろう。それにも関わらず、彼は、まるで何もなかったように、気遣いの言葉を投げかける。
かつてほど童顔でも華奢でもない彼は、今は絵筆よりも人を殴ることに慣れた手をポケットに入れる。さすがに薄手の青いパーカーでは寒いだろう。冷え切った空気に赤くなった頬は、微動だにしない笑みをたたえている。
「あなたこそ、何をしていたんですか?」
凍りついた喉を無理やり動かして、声を搾り出す。動揺を悟られないようにという意図はまるでない。いざとなれば切り捨てて子供にしてしまえる彼女にとって、恐れるものなどたった一つ、いや一人だった。
「んー、なんていうか、清掃作業、ですかね。街を綺麗にしようと頑張ってます」
いかにも「いい子」を装った笑顔を浮かべる彼に、深入りしてもいいものか戸惑った。しかし、やはり知らないふりをするわけにはいかない。
「……その人を、傷めつけることがですか?」
「あれ、見てたんですか。まあ、こいつはダラーズを汚そうとした奴なんで、仕方ないんですよ。黴菌はしっかり駆除しておかないと。掃除の基本でしょ?」
「…黴菌?」
震える声をだしながら、杏里は手の中の刃を握る。やはり、この少年は斬っておいた方がいいと思ったその時、彼女は、唯一彼女の判断を狂わせる名前を聞いた。
「だって、綺麗にしておかなくちゃ、帝人先輩が悲しむでしょう?」
赤い目を見張り、掌から滑り落ちそうな刃を握りなおして、彼女は言葉もなく続く言葉を聞いた。
「ここが汚いままだったら、先輩が帰って来れないでしょう。だからちゃんと掃除しておかないと。先輩きちんとしてないのは嫌いですから」
「竜ヶ峰くんは、もどってくるんですか」
「来ますよ。絶対。だって、非日常大好きな先輩が、親に連れ戻された位で、池袋を諦めるわけないでしょう。それに、戻ってきてくれないと、先輩は俺らのリーダーなんですから」
青葉の後ろに立つ青いバンダナの男達は、まるで痛ましいものを見るように、密かに息を吐いた。それに気づかない杏里ではなかったが、その言葉の毒に侵されて、身動きがとれない。
帰ってきてくれたら。そう思わない日はなかった。
(ああ彼も)
杏里は唐突に理解した。彼女が誰かに寄生しなければ生きていけないように、そして竜ヶ峰帝人に寄生したときから、他の宿主を見つける気になれなかったように、青葉もまた、彼に縛られている。
「先輩がもどってくるまで、俺は先輩が嫌いな物をきちんと片付けて、きれいにしてるんです。いい加減遅いですよね。でも俺ちゃんと待ってるんです」
無邪気を装った笑顔は、鮫の牙をのぞかせ、毒々しく輝く。置いて行かれた狂犬。かつての宿主の夢に縛られたまま、行き場を失った鮫。
「杏里先輩も、でしょう?」
それは、今でも何かにつけては彼を思い出す杏里とそっくりで。掌の中から刃は消えていた。
「心配しないでくださいよ。先輩がいない隙に街を荒そうなんて思ってませんから。ブルースクエアは今は池袋とダラーズを守ってるんです」
今までは素通りしてきた喧嘩もどきに、足を止めたのはなぜか。後輩だと知りつつ、斬ろうとした理由は。
「杏里先輩がやっていることと同じですよ」
彼の夢の残骸は、今でもこの街で生きている。残された人間、待ち望む人間の中で。
(愛が聞こえるわ)
彼女の中に棲む異形が囁く。
(ねえ、杏里あなたと同じ声よ。同じ言葉よ。ふふふ愛しているのね。帝人くん。帝人先輩。戻ってきてほしいのね。いつまでも待っているのね。なんて深い愛かしら。なんて愛しいのかしら。ねえ杏里聞こえるでしょう)
(戻れたら。あの頃に戻れたら。世界は完全だった。あなたは笑っていた。傷だらけで笑うあなただけが世界を完全にした。あなたがいない。それだけで、色あせた全てを眺めながら、繰り返す。あなたがやってきたこと。あなたがやろうとしていたこと。いつまでも待っている。また世界が完全になる日を。あなたがもどってくるのを)
ここは、この街は、池袋は、今や鮫の腹の中。彼を再び誘い込むための巨大な檻。
空っぽの檻の中には、今は、色を失った世界と砕け散った彼の夢の欠片が詰め込まれているだけ。
「帝人先輩が戻ってくるまで仲良くしましょうよ。俺、先輩に関しては寛容なんで、杏里先輩が帝人先輩の気持ちを受け入れる気がないうちは、俺も、杏里先輩のことは好きですよ」
否定はできない。杏里は帝人が好きだっただ、斬りたくはなかった。それでも傍にいたかった。今も待っているのかもしれない。
青葉の後ろに立っていた少年が、彼に声をかけた。
「ああ、悪い。撤収だ」
作品名:モノクロに彩られた夢 作家名:川野礼