図書室戦争
ここは沈黙が支配する、本の要塞、知恵者の砦。
その頂点に君臨する図書委員会は、いわば本という名の姫君の守護者である。一方、忍たまは姫に焦がれる武士であろうか。忍者のたまごにその喩えはイマイチではあるけども。
とにかく、この図書室では絶対的なルールがいくつか存在する。図書委員長を筆頭に、利用者にそのルールを守らせるのも、図書委員の仕事のひとつである。
なのだが、きり丸は動けないでいた。手のひらに握られた五枚の食券が、あまりに重かった。誰かに何かを頼むときの食券取引は、三枚までが相場だ。それが五枚! その価値たるや、天才アルバイターを自称するきり丸には痛いほどわかる。
静謐にありえないざわりとした空気。ほんの数人しかいない利用者の視線が状況を理解できぬまま彷徨い、守護者の動きを待っている。
だが、きり丸は動けなかった。
話はほんの少し前にさかのぼる。
「あー、今日みたいな日に図書室なんて来る人いるんすかね?」
昨日までの悪天候から打って変わり、ぽかぽか陽気に包まれた放課後。それまで外に出られなかった鬱憤を晴らすように(といっても、悪天候ゆえに外で訓練する忍たまたちも少なからずいるのだが)、忍たまたちは校庭に出て遊んでいる。そのにぎやかな歓声は、図書室の前でも聞こえるほどだ。
そんな楽しい日に、図書当番になるとは。仕方ないこととはいえ、きり丸は溜息と共に愚痴をこぼす。それに同じ当番の不破雷蔵が笑う。
「こういう日だからこそ、来る忍たまもいるさ」
だから抜け出して遊びに行こうなんて言っちゃ駄目だよと先に釘を刺すあたり、さすがにこの人も伊達に五年間、忍術学園で生活していない。というよりも、一年は組の性質をよく知っているだけか。その辺は怪しいが、筆を鼻の下に挟んだまま、カウンターに突っ伏す。行儀が悪いよと注意されるが、一番怖い人が不在の今、これぐらいダラけるのは許してもらいたい。
遊びたい盛りの後輩の、そんな我慢の方法に仕方ないとまた笑うと、雷蔵は返却図書の整理を始める。
そうしているうちに一人二人と図書室に足を運んでくる忍たまたちが現れて、あとは図書室のよくある風景が広がる。
変わり栄えのない、いつもの業務。貸出票から返却予定日を過ぎた本のチェックを始めるきり丸の手元に、影が落ちる。貸し出しかと顔を上げれば、つい反射的に顔がゆがんだ。
「……あー、なんか御用ですか?」
たとえここがいくつものルールに守られた図書室とはいえ、学園一ウザい男ときり丸的には思っている滝夜叉丸の出現は、無駄に警戒心を呼び起こす。もっとも、彼は図書室の常連の一人だから、ここで出会う確立は案外高い。
そんなきり丸の様子を気にした風もなく、滝夜叉丸は右手を突き出す。
「きり丸、手を出せ。いいものをやろう」
「はいは〜いっ、なにくれるんですかっ!」
小声でのやり取りは、一応、許容範囲。もっとも「やる」とか「あげる」といった単語が出た時点で、残念ながらこの小さな図書委員の脳裏から、その使命は吹き飛んでいる。
まだ肉刺の少ない手のひらの上に置かれたのは、五枚の食券。
「少し黙っていてくれるな?」
有無を言わせぬ声とその代価に、さすがに目を銭にしていたきり丸も少しばかり冷静になる。価値が高すぎると、逆になにやら冷めるのと同じ原理だ。
「……なにする気ですか」
「課題を済ませるんだ。迷惑はかけない」
頼むぞとひらり手を振って、滝夜叉丸は書架へと向かう。不審だと目で追えば、本の整理をしている雷蔵の隣に立つ。
「不破先輩」
「やあ、滝夜叉丸。探し物かい?」
囁くような、小さな呼び声。それにちゃんと反応する年上の人は、丁寧に手を止めて微笑む。
「はい。先輩のお力をお借りしたくて」
「いいよ。何の本を探すのか教えてくれ……ぇっ!!」
図書委員として、本に関するなにかしらの手伝いをするのは仕事のひとつ。雷蔵が軽く請け負えば、自慢の美貌で笑んだ後輩の身体がいきなり歪む。
とっさに出たのは、しまったという忍たまとして叩き込まれた本能。脛に受けた衝撃と共に足の裏になにもなくなって、身体が空に浮く。受身を取ろうとする手と、抱えた本を落としてはならないという使命とが雷蔵の動きを鈍らせる。もちろん、足払いを仕掛けた滝夜叉丸も見守るばかりではない。襟をつかむと、自分の身体ごと圧し掛かる。
激しい物音に、図書室に来ていた忍たまたちの視線が一斉に物音の中心点である、雷蔵たちに集まる。その彼らの手から落ちた本がどさりどさりと床を叩いて、奇妙な音楽を奏でていく。
図書委員たちが悲鳴を上げるだろうその光景。しかし、今ばかりは誰も注意しない。
床に押し倒された雷蔵と、その上に跨る滝夜叉丸という奇妙な構図は、まず今までの忍たま人生の中で見もたこともなければ、目にするなんて予想もしなかったもので、すべての言語を奪うに十分な破壊力だった。
「滝夜叉丸っ!?」
したたかに打ちつけた背中に涙目になりながら、最後は両手で抱きしめて守った本。そのままの姿勢で、雷蔵が非難の声を上げる。だが当の加害者はどこ吹く風だ。
「実習のお相手を願います。先輩方にもすでに通達済みと聞いています」
ああ、なんだ実習か。免罪符であるその言葉に、聴衆たちは胸を撫で下ろす。この奇妙な光景も、実習ならば納得だ。ああ良かった良かった。
明らかに緊張の空気が緩んだ図書室内。しかし当事者の、一方的に押し倒される形となった雷蔵としては和めるはずもない。
「いや、そりゃ聞いてるよ。だけど、ちょっと待って!? あの、僕なの……?」
四年生が行うこの実習は毎年恒例のもので、雷蔵自身も通ってきた道。だからこそ、混乱が酷くなる。
現在、上級生に通達されていることといえば、後輩に色の手ほどきを行えということ。学園を抜け出して遊女のところへ連れて行くもよし、念者として手ほどきをするもよし。その采配は当事者同士で決めろといい加減ではあるのだが、つまりそういう内容なのだ。
だから雷蔵としても、後輩に頼まれれば多少なりとも考える。それが先輩としての役目というものだ。だが少なくともこの後輩は、そういう手ほどきをしてもらうにふさわしい相手はすでにいる。
「はい。よろしくお願いします」
なのに、至近距離で滝夜叉丸は頷く。揺れた頭にあわせ、垂れた横髪が頬に当たってくすぐったい。
「よろしくって……滝夜叉丸っ!!」
腰紐に手をかけられて、慌ててその手首を掴む。相手もそうだが、何より場所が場所だ。彼が行う実習は、普通ならば秘密裏に、人気のない場所で行うはずのもの。なのにどうして、誰かに見守られながら成さねばならないのか。
「君が頼む人は別にいるだろうっ」
もはや叫びは悲鳴に近い。
「今、目の前にいらっしゃいますよ。いいよって言ったんです。二言はないですよ、不破先輩。あ、あまり暴れると本が……」
まるで一年は組の学級委員長よろしく冷静に、胸の上で今にも皺になりそうな本を指す。はっと注意がそれた瞬間、緩む腰紐の感覚。ひやりとした汗が額を伝う。
「ちょっと! 待って! 困るからっ!!」