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図書室戦争

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 無理やり上体を起こそうとして腹筋に力を入れてはみるが、関節を上手い具合に押さえられてままならない。もし万が一、このままで……なんてことになったら、尊敬する先輩に対して顔向けが出来ない。この後輩は、雷蔵がもっとも尊敬するひとつ上の先輩であり、図書委員会委員長を務める中在家長次と念此な関係なのだから。
 どうしたらこの場から逃れられる? 周囲はどうしていいかわからずに眺めるだけの現状。助けを求める視線は、唯一の援軍の姿を捉える。もはや、後輩だとか外聞だとかはない。頼れるのは、彼だけなのだ。
「きり丸っ!」
 必死になって呼ぶのは、この図書室の規律を守る存在。本来ならば、騒いでいる二人を追い出しにかかるべき立場にある。
 だが、そんなきり丸の視線は、なぜか自分たちと彼の手元を行き来する。
「六枚」
 頭上から響く、たった一言。それにピクリと反応するきり丸の姿に、もはや味方はいないことを悟る。
「……買収したな」
「安心してください。酷いことはしませんから」
「それは良かった……って、そうじゃないだろうっ。本当に、困るって」
「では、力ずくで」
「それも、困るっ」
 うっかり握りしめる本に汗が染みこむ。白い指が緩んだ袴の中へ伸びるのに、誰かが息を飲む。
「先輩、暴れたら取れないでしょう!」
「取るってなにをだよ!!」
 とにかく上に乗る滝夜叉丸を退かさなければ。忍たまならばもっとスマートに脱出すべきかもしれないが、自由な足をばたつかせて身をよじる。逃がすまいとする滝夜叉丸の片手は袴にかけられたままだから、ずるりと引き下ろされるのも、もはや不可抗力。逃げるどころか手伝ってどうするのだという結果に、泣きたくなる。
「不破先輩」
 耳元をくすぐる、吐息交じりの囁き声。ごくりと己が唾を飲み込む音がいやに響く。
「滝夜叉――」
「見つけましたよ、いただきます」
「え?」
 絶体絶命かと思われていたのに、それまでのことはなんだったのかというぐらい滝夜叉丸はあっさりと雷蔵の上から退く。慌てて離れると、乱れた服装を直す。こちらも軽く乱れた襟を直した滝夜叉丸が、青い組紐を雷蔵の前で振ってみせた。
「あ、それは…っ!」
 見覚えのあるその紐は、四年生の課題を手伝った際渡すように言われ、下帯に挟んでいたもの。何故そんな場所にかといえば脱がねば取れないという理由からで、結構あからさまに学園側も仕組んでいる。それはいいとして、問題はその紐が誰のものかわかるようになっているということ。
「真面目な先輩ならば、ちゃんと指示通りに着けていると思っていました。おかげで、きっと私が一番最初に課題を終了させた優秀な忍たまとなるでしょう。では、失礼します」
「ちょっ、ちょっと待って滝夜叉丸!」
 何度目かわからない引止めの言葉を口にして、額ににじむ汗を拭う。
「なんですか?」
 もう用事は済んだとばかりにさっさと出て行こうとしている後輩は、少し苛立ちを含む声で振り返る。
 一番乗りで教師のところへ行く邪魔をする相手は、先輩であろうが邪魔者扱いときている。普段は目上には一応礼儀正しい後輩のはずだが、この辺の比重ははっきりしているらしい。
「それ、渡したときのことを後日、僕も報告しないとならないんだけどさ……」
「ありのままをしたらいいじゃないですか」
 困るからと暗に言えば、なんとも投げやりな回答が返ってくる。いやしかし。
「でも、君たちの課題は……」
「私たち四年生に与えられた課題は、五、六年生が持っているこの紐を持ってくることです。方法や手段は問われていません」
 だから無問題なのです。そうきっぱり言い切られては、確かにその通りではある。だかしかし。何度目かわからぬ否定を繰り返す。
「僕らには、渡すときの注意が出ているんだよ」
 さすがにまだ周囲には数人とはいえ忍たまたちがいて、こちらの会話に聞き耳を立てている状況。あからさまな単語を出すわけには行かずにごまかすが、今日会って以来、断言系でしか会話しない滝夜叉丸は今度もきっぱり言い放つ。
「私には、今更、先輩たちから手ほどきを受ける必要などありません。だから奪ったまでです。それとも不破先輩は、私にこの紐を渡すに足りないものが、この滝夜叉丸にあるとでも?」
 ちらりと向けられる挑発的な視線は、文句があるなら言ってみろといわんばかり。もちろんあるはずもないから、肩をすくめる。それに満足げに頷くと、優雅に一礼して踵を返す。
「では、失礼します」
 ふわりと揺れた黒髪軽やかに、足取りも軽く図書室から出て行く滝夜叉丸。
 こうして派手な台風は去り、あとはいつもの図書室の静寂が戻ってきたけれど、残された傷跡はあまりに大きい。その場に脱力して座り込んだ雷蔵を誰が責められようか。
「…大丈夫ですか?」
 ようやくカウンターから出てきたきり丸が、おそるおそる声をかける。それについ恨みがましい視線を送るのは、いまだダメージが抜け切れれていない証拠だろう。主に、精神面での。
「きり丸。君、僕を売ったね……」
「売ったなんて人聞きの悪い! おれだって、なにするか知らなかったんすよっ」
 ブンブンと首を振っての大否定だが、売った事実は否定しないあたりこの子もまだ可愛い。
 口から零れるのは、溜息と苦笑。これで手打ちだと、本気を半分ぐらい込めて頭を小突いてやる。
「痛いっ!」
 大げさに頭を押さえるきり丸も、さすがに悪かったと思っているのか、いつもよりも非難の声は小さい。
「まったく、簡単に買収されては駄目じゃないか。食券何枚で取引したんだい?」
「五枚です」
「それは………滝夜叉丸も随分頑張ったね」
「でしょう! だから、ちょっと手が出しにくくて」
 こちらが本気で怒ってないとわかると、言葉尻に乗って調子づくのはきり丸の悪い癖。コラコラと今度は軽く突いてストップをかける。
「だけど、僕たち図書委員の仕事を忘れては駄目だ。買収されたことが中在家先輩の耳に入ったら……どうなるか想像はつくよね?」
 もちろんきり丸があずかり知らぬ理由も加味されて、さぞ素敵な笑顔になることだろう。そこまで想像できていなくても食券は没収されると思ったのか、きり丸の顔がすっと青くなる。
「やっぱ、……取り上げられますかね、コレ」
「土井先生に相談ぐらいはされるかもしれないね。だから、きり丸」
 ポンと両肩に手を置いて視線の高さを合わせる。ここが雷蔵自身にとっても勝負どころ。今後の、できるだけ平和な学園生活を送るため、少しでも時間的猶予を稼ぎたいのだ。
「ここであったことは、内緒に出来るね? 僕も先輩に報告はしないから、君も公言しないこと」
 そうすれば、食券のことは目をつぶろう。彼に美味しい取引を持ちかければ、とたん機嫌を戻す後輩がいい声で返事をする。
「もちろん約束しますよ」
「ここにいるみんなへの念押しも頼むよ。……本、傷んでなきゃいいけど」
作品名:図書室戦争 作家名:架白ぐら