熱病
どん!
目の前のお膳の上に置かれた瓶。その中に満たされた真っ赤な液体。
「………」
日本は怪訝な顔でそれを見つめた。
「ワイン、飲んだことないんか?」
不気味なものを見る目でじっとワインの瓶を見つめる。
「スペインさんやポルトガルさんがいらっしゃった頃、見たことはありますが飲んだ事はありません。
この赤い色が何とも…、まるで血みたいじゃないですか…
少し前までは『南蛮人は人の肉を食らい生き血を飲む』と言われていました。肉は獣の肉、生き血はこのワインのことでしょうね…」
同じ膳にワイングラスを置き、オランダがワインの封を開ける。
「まぁ、飲みね」
葡萄の房と葉が彫り込まれたグラスにとくとくとワインが注がれていく。
日本は眉を寄せ、声は出さないが「うわー」と口を動かした。
「口当たりのええのを選んで持ってきたさけぇ飲みやすい筈や」
赤い液体が満たされたグラスを日本に渡す。
「………」
日本は受け取ったグラスを膝の上で握り締め、俯いてじーっと見つめている。
「………」
意を決してグラスを顔に近づける。先ずは鼻を近づけ、注意深く匂いを嗅いでみる。
「……?」
少し酸味を帯びた香りがした。
ぺろっと舌を出して表面を舐めてみた。
「……!」
……甘い。
米の酒より甘くて飲み易そうだと思い、一口飲んでみた。
「…甘くて渋くて酸っぱい…ですね」
少し上を向いて目を閉じ、口の中のワインの残り香を味わう。
「俺の家ではワインも飲むけど、ビールやジンの方をよう飲むかもな。
うちはあんまり暖かい方やないから葡萄より麦の方が作るのに適してるせいもあるしな。
ほやけど職人揃いでなかなかええワインを作るって評判なんやざ。
ああ、それからワインの赤い色は葡萄の皮の色や、ほやけぇ皮を取ってから酒にしたら白いのが出来るんやざ」
日本がなかなか上手にワインを飲む様子を見て、オランダは嬉しそうに(といっても表情にはあまり出ないが)ワインの説明を始めた。
…確かに口当たりが良くて飲み易い。
オランダがワインに関する薀蓄を垂れている間に日本は手の中のグラスの中身を一気に飲み干し、新しく自分で注いで、更に三杯目も飲み干した。
「おいジジイ!何勝手に何杯も飲んどるんや!」
オランダが気付いた時には日本は既に頬を朱に染めて焦点の合わない目をしていた。
「………………はい?」
まばたきすら止んで、完全に一時停止した後、陽炎の羽根のような頼りない声で返事が返ってくる。
「…………」
そして目を細め、にこーっとオランダに向かって笑いかけてきた。
「…こわっ」
見てはいけないものを見てしまったような気がしてオランダは胡坐を掻いたまま少し後ずさる。
「ふ…」
かくん、と突然からくりのように俯いた日本の口から声が洩れる。
「ふ…、フふ…ふ・フフ…、ふ…」
洩れている声はどうやら笑い声のようだが不気味な事この上ない。
「ふフっ…、………ふぅ。………」
笑いながらふらふらとオランダに近づき、溜め息を付きながらぽてっ、と彼の肩に寄り掛かった。
オランダは吐かれるのではないかと思って気が気ではない。
「ホンマ、大丈夫か?自分、…吐きなや?」
と声をかけると
「だいじょうぶでーす」
と返事は返ってくるものの、酔っ払いというものは大抵が大丈夫でなくても『大丈夫』と云うものだ。
ふと顔を上げる日本と目が合った。
黒く光る両の眼がじっとオランダを見つめる。
その表情はまるで邪気のない子供のようで、オランダは目を反らす機会を失ってしまい、そのまま暫く見つめ合う事になった。
…そう云えば、とオランダは記憶の底を探ってみる。
――そう言えば、こいつにじぃっと見つめられるっちゅう事が今まで無かったな…
オランダの記憶にの中にはいつも伏し目がちで困ったように笑ったり、頬を紅潮させ、目を背ける日本の姿しかなかった。
「………」
酔ってふわふわとした心地の中で、日本はじっとオランダの顔を見詰める。
……白い肌。
そっとオランダの両頬に触れてみる。
……金色の髪、彫りの深い顔立ち、碧の瞳…。
「……綺麗。ですねぇ…」
改めて間近で見詰め、目を細めてため息を付く。
「…我々と、同じ「人」とは思えませんねぇ…」
その言葉に、オランダがピクッっと反応した。
――当たり前や、俺らとお前等小汚い有色人種とが『同じ』な訳無いやろが…!
そうは思っていてもあえて言葉にはしない。
「…まぁな、でもアジア人は俺らより皆歳を取るのが遅いやざ」
そう言って日本の頭を撫でる。
――黒い髪、黒い瞳、象牙の肌、小さな身体…。
幼子のように、子犬のように、日本は屈託ない笑みを浮かべた。
――野蛮で汚らしい劣等人種。
そんな日本の肩にそっと手を回し、抱きしめる。
――家畜同然、命の価値など虫や鼠並みやと、ここに来るまではそう思っていた。
日本は少し驚いた表情を見せたが、それに逆らうことはなかった。
「………」
心の中でずっと否定していた思いが浮上する。
まさかそんな事はありえない。
しかし…
「………」
オランダは膳の上に置いてあったグラスを掴み取り、その中身を一気にあおった。
「………っ!」
飲みやすいと言っても、日本の米酒並みのアルコールを含んだ物を一気に飲めばにわかに酔いが回る。
「……大丈夫ですか…ぁ?」
口では心配するそぶりを見せるが、酔って思考が変な方向に行った日本は、オランダの白い肌がみるみる桜色に染まっていく様子を見て、今すぐ筆を持って歌にしたためたい気持ちが湧いて来た。
筆と紙を捜しに行こうと思い、抱きしめられた腕を解こうとしたが、意に反して逆に強く抱きしめられてしまった。
「ぅわ…っ!」
「………」
――『酔ったはずみ』ちゅう事でええやん。
「酒」と言う免罪符で軽く酔ったオランダは、まだ思考が正常なうちにと頭の中であらゆる策を練っていた。
心臓がドクドクと音を立てている。
暖炉の前にいるように顔が熱い…。
…今、日本は酔っていて、正常な判断は出来ない状態だ。
今なら断られることはないだろうし、もし断られても明日まで覚えてはいまい。
「………キスして…、ええか?」
自分の心臓の鼓動が耳から聞こえる。
「………?」
オランダが何を云ったのか分からなくて、日本は首をかしげる。
「…キス、って…何ですか?」
「挨拶や」
息を吐くように嘘をついてしまった。
「今日の挨拶は、お昼に済ませましたが…?」
首を斜めに傾ける日本が何だか意味もなく癪に障る。
「…黙れ」
そう言って唇と唇が触れるだけの短いキスをする。
顔を離すとそこには驚いて大きく目を見開いた日本の顔があった。
「…顔が…」
呆けた顔の唇だけがゆっくりと動く。
「顔が近くなって、…恥ずかしいですね…」
そう言ってぎこちなく俯き、酔った時より更に少し赤くなった頬を両手で押さえる。
「………ほうやのう…」
日本の表情に一瞬放心したオランダも慌てて微笑む。
挨拶…、という説明は間違ってはいない。
しかし、そう言って騙してしまったという後ろ暗さがどうしても拭えない。
「もう一回や」
そう言って再度唇を重ねた。
「………!」
日本の肩を抱いた左手がやけに汗ばんでいることに気付き、オランダはキスの最中に方目を半分開けた。
目の前のお膳の上に置かれた瓶。その中に満たされた真っ赤な液体。
「………」
日本は怪訝な顔でそれを見つめた。
「ワイン、飲んだことないんか?」
不気味なものを見る目でじっとワインの瓶を見つめる。
「スペインさんやポルトガルさんがいらっしゃった頃、見たことはありますが飲んだ事はありません。
この赤い色が何とも…、まるで血みたいじゃないですか…
少し前までは『南蛮人は人の肉を食らい生き血を飲む』と言われていました。肉は獣の肉、生き血はこのワインのことでしょうね…」
同じ膳にワイングラスを置き、オランダがワインの封を開ける。
「まぁ、飲みね」
葡萄の房と葉が彫り込まれたグラスにとくとくとワインが注がれていく。
日本は眉を寄せ、声は出さないが「うわー」と口を動かした。
「口当たりのええのを選んで持ってきたさけぇ飲みやすい筈や」
赤い液体が満たされたグラスを日本に渡す。
「………」
日本は受け取ったグラスを膝の上で握り締め、俯いてじーっと見つめている。
「………」
意を決してグラスを顔に近づける。先ずは鼻を近づけ、注意深く匂いを嗅いでみる。
「……?」
少し酸味を帯びた香りがした。
ぺろっと舌を出して表面を舐めてみた。
「……!」
……甘い。
米の酒より甘くて飲み易そうだと思い、一口飲んでみた。
「…甘くて渋くて酸っぱい…ですね」
少し上を向いて目を閉じ、口の中のワインの残り香を味わう。
「俺の家ではワインも飲むけど、ビールやジンの方をよう飲むかもな。
うちはあんまり暖かい方やないから葡萄より麦の方が作るのに適してるせいもあるしな。
ほやけど職人揃いでなかなかええワインを作るって評判なんやざ。
ああ、それからワインの赤い色は葡萄の皮の色や、ほやけぇ皮を取ってから酒にしたら白いのが出来るんやざ」
日本がなかなか上手にワインを飲む様子を見て、オランダは嬉しそうに(といっても表情にはあまり出ないが)ワインの説明を始めた。
…確かに口当たりが良くて飲み易い。
オランダがワインに関する薀蓄を垂れている間に日本は手の中のグラスの中身を一気に飲み干し、新しく自分で注いで、更に三杯目も飲み干した。
「おいジジイ!何勝手に何杯も飲んどるんや!」
オランダが気付いた時には日本は既に頬を朱に染めて焦点の合わない目をしていた。
「………………はい?」
まばたきすら止んで、完全に一時停止した後、陽炎の羽根のような頼りない声で返事が返ってくる。
「…………」
そして目を細め、にこーっとオランダに向かって笑いかけてきた。
「…こわっ」
見てはいけないものを見てしまったような気がしてオランダは胡坐を掻いたまま少し後ずさる。
「ふ…」
かくん、と突然からくりのように俯いた日本の口から声が洩れる。
「ふ…、フふ…ふ・フフ…、ふ…」
洩れている声はどうやら笑い声のようだが不気味な事この上ない。
「ふフっ…、………ふぅ。………」
笑いながらふらふらとオランダに近づき、溜め息を付きながらぽてっ、と彼の肩に寄り掛かった。
オランダは吐かれるのではないかと思って気が気ではない。
「ホンマ、大丈夫か?自分、…吐きなや?」
と声をかけると
「だいじょうぶでーす」
と返事は返ってくるものの、酔っ払いというものは大抵が大丈夫でなくても『大丈夫』と云うものだ。
ふと顔を上げる日本と目が合った。
黒く光る両の眼がじっとオランダを見つめる。
その表情はまるで邪気のない子供のようで、オランダは目を反らす機会を失ってしまい、そのまま暫く見つめ合う事になった。
…そう云えば、とオランダは記憶の底を探ってみる。
――そう言えば、こいつにじぃっと見つめられるっちゅう事が今まで無かったな…
オランダの記憶にの中にはいつも伏し目がちで困ったように笑ったり、頬を紅潮させ、目を背ける日本の姿しかなかった。
「………」
酔ってふわふわとした心地の中で、日本はじっとオランダの顔を見詰める。
……白い肌。
そっとオランダの両頬に触れてみる。
……金色の髪、彫りの深い顔立ち、碧の瞳…。
「……綺麗。ですねぇ…」
改めて間近で見詰め、目を細めてため息を付く。
「…我々と、同じ「人」とは思えませんねぇ…」
その言葉に、オランダがピクッっと反応した。
――当たり前や、俺らとお前等小汚い有色人種とが『同じ』な訳無いやろが…!
そうは思っていてもあえて言葉にはしない。
「…まぁな、でもアジア人は俺らより皆歳を取るのが遅いやざ」
そう言って日本の頭を撫でる。
――黒い髪、黒い瞳、象牙の肌、小さな身体…。
幼子のように、子犬のように、日本は屈託ない笑みを浮かべた。
――野蛮で汚らしい劣等人種。
そんな日本の肩にそっと手を回し、抱きしめる。
――家畜同然、命の価値など虫や鼠並みやと、ここに来るまではそう思っていた。
日本は少し驚いた表情を見せたが、それに逆らうことはなかった。
「………」
心の中でずっと否定していた思いが浮上する。
まさかそんな事はありえない。
しかし…
「………」
オランダは膳の上に置いてあったグラスを掴み取り、その中身を一気にあおった。
「………っ!」
飲みやすいと言っても、日本の米酒並みのアルコールを含んだ物を一気に飲めばにわかに酔いが回る。
「……大丈夫ですか…ぁ?」
口では心配するそぶりを見せるが、酔って思考が変な方向に行った日本は、オランダの白い肌がみるみる桜色に染まっていく様子を見て、今すぐ筆を持って歌にしたためたい気持ちが湧いて来た。
筆と紙を捜しに行こうと思い、抱きしめられた腕を解こうとしたが、意に反して逆に強く抱きしめられてしまった。
「ぅわ…っ!」
「………」
――『酔ったはずみ』ちゅう事でええやん。
「酒」と言う免罪符で軽く酔ったオランダは、まだ思考が正常なうちにと頭の中であらゆる策を練っていた。
心臓がドクドクと音を立てている。
暖炉の前にいるように顔が熱い…。
…今、日本は酔っていて、正常な判断は出来ない状態だ。
今なら断られることはないだろうし、もし断られても明日まで覚えてはいまい。
「………キスして…、ええか?」
自分の心臓の鼓動が耳から聞こえる。
「………?」
オランダが何を云ったのか分からなくて、日本は首をかしげる。
「…キス、って…何ですか?」
「挨拶や」
息を吐くように嘘をついてしまった。
「今日の挨拶は、お昼に済ませましたが…?」
首を斜めに傾ける日本が何だか意味もなく癪に障る。
「…黙れ」
そう言って唇と唇が触れるだけの短いキスをする。
顔を離すとそこには驚いて大きく目を見開いた日本の顔があった。
「…顔が…」
呆けた顔の唇だけがゆっくりと動く。
「顔が近くなって、…恥ずかしいですね…」
そう言ってぎこちなく俯き、酔った時より更に少し赤くなった頬を両手で押さえる。
「………ほうやのう…」
日本の表情に一瞬放心したオランダも慌てて微笑む。
挨拶…、という説明は間違ってはいない。
しかし、そう言って騙してしまったという後ろ暗さがどうしても拭えない。
「もう一回や」
そう言って再度唇を重ねた。
「………!」
日本の肩を抱いた左手がやけに汗ばんでいることに気付き、オランダはキスの最中に方目を半分開けた。