Gemuetlichkeit
兄が、瓶の栓を抜く。バイエルン王にも献上されたといわれるそれを、グラスに慣れた手つきで一気に、そして泡が立ちすぎないように注ぐ。自分が未だに、兄に敵わない部分の一つでもあるな、とその手際の良さを見て思った。八割方、注ぎ終わると最後に残った一二割のビールの為にヴァイスビールのまじないじみた行動をする。テーブルの上で瓶を寝かし数回転がして、再び残りを黄金の液体に注ぎ込む。ととと、という静かに交わる音がする。この、最後瓶を寝かして転がすという動作は瓶の底に付く酵母菌を付着させ美味みを引き出す、という、疑いたくなるような理由があるのだが、真偽の程は確かではない。
ただ、その方が格段に美味く感じる気がするのは確かで、ヴァイスビールを飲む際のお決まりの動作としてすっかり自分の中では定着してしまっていた。
改めて、午後の秋の陽に照らされた黄金の液体を眺め見る。泡は木目細やかにグラス上部を縁取り、泡の白と対比をなすかの様に、琥珀に、黄金に輝く液体がその下で微かな炭酸と共に静かにそこにあった。
「乾杯」
そう言うと、兄とグラスをかちり、と静かに合わせ、口をつけた。喉奥まで、芳醇でまろやかな味が伝わってくる。静かな時間に流されるように、次の口をつける前に珍しく余韻を味わうと小麦麦芽の豊かな味を感じる様だった。「こうやって、何も食わねぇって決めて飲むと、やっぱ断食ん時に飲んだこと思い出して、勘弁だわ。まーたまにはいいけどよ」と破顔しながら言った。なるほど、中世の修道士たちは復活祭の前は断食となり、「飲むパン」と称し栄養価が高いビールを食事代わりに飲んでいたという。まさに、命の水であるな、と思い二口目に口をつける。
「いいものだな…」
そう、自然と呟いていた。対角線上の一人用ソファを陣取っていた兄は、それを聞くと、口角をにやにやさせながらルートビィッヒの隣に移動しどか、と腰をおろし「だろ!さすが俺様ナイスアイディアだろ!」と、ケセセと言いながら背中をバンバンと叩かれる。
少し噎せながら、やめてくれ兄さんと、ねめつけると悪ィ悪ィと言いながらグラスを見つめ
「こういう時間をGemuetlichkeitつーんかもな」
「そうだな…」
なんとはなしに気恥ずかしい、しかし温かな時間が流れ始める。体が、胸の奥の小さく深い所が暖か感じるのはアルコールのせいだけではないだろう。
「二十年早かったのか、遅かったのかわかんねーな」何を終わった様に、しみじみしてるんだ、まだまだ問題は山積しているんだ、少しは真剣に物事を考えてくれと小言を言い出すと、わかった、わかったと自分の言葉を制し
「とにかく、これからも、よろしくな!ヴェスト!」
と、顔を正面から見据えながら改まった表情で言われ、久しぶりに見る兄の真剣だが、優しさに満ちた眼差しに鼓動が跳ねた。「何を改まって…」と、明後日の方向を向くと瞬間不意に頬にキスをされた。かしこまったと思ったら、いきなり何なんだ!と声を荒げ、動揺を隠せないでいると、兄は頬を突き出す様な仕草をし、左の人差し指を自分の頬に指し示していた。
「そんな恥ずかしい事できるか!」と、再度憤怒の言葉をぶつけるが、兄はそのポーズをやめようとはせず、深い溜息をつきながらグラスを置くと、ちゅ、と小さく音をたて素早く兄の頬に短く口づけた。
「これからもよろしく、兄さん」
秋の温かな日差しに照らされ、黄金の水はグラスの中で静かに輝いていた。
------------------了
作品名:Gemuetlichkeit 作家名:taniguchi