占有
「お風呂いただきました」
ありがとうございます、とさっぱりした顔で浴室から出てきた少年に、家主である眼鏡の青年は軽く手を振ってこたえる。その傍らに立つ彼のパートナーである女性は手にした電子機器にかたかたと何事かを打ち込むとその画面を示して見せた。
『温まったか?』
「はい。ありがとうございます」
「災難だったねぇ」
眼鏡の青年―――この家の家主で、名を岸谷新羅という―――は、からからと笑いながら言った。
「直情径行。奴は思うままに行動する性質だから……まあ何にせよ怪我はなくて良かったね~…押さえ込まれて無理矢……げほぉ!」
わき腹を本気のグーでどつかれている新羅に、帝人は苦笑を返しながら首を傾げる。
「静雄さんはやさしいひとですよ?」
彼が帝人に怪我を負わせるなどありえないことだ。
『それで、静雄は?』
帝人の疑問になにやら言葉を返そうとした新羅を制して、彼をどついていた女性が文字を打ち込んだ画面を帝人へ向ける。彼女はデュラハンという首なし妖精であるので、言葉を話すことが出来ないのだ。いつも外に出るときには被っている(乗せている?)ヘルメットを外した、人間でいうところの頭部にあたる部分には、黒い霧のようなものがぼんやりと漂っている。
「『繋いで』きました」
少しは反省してもらわないと。
ふう、とため息をひとつ零して帝人は続けた。
「本当に助かりました……セルティさんに拾ってもらえてよかった」
首なし妖精―――セルティ・ストゥルルソンは黒い霧をぼわん、と揺らめかせた。人であれば、苦笑した、といったところか。
彼女が帝人を『拾った』のは、仕事帰りに通りかかった早朝の公園でのことである。
*****
『み、みかど???』
よれよれとうな垂れた様で植え込みの端に腰を下ろしている少年に、セルティはどうしたのかと驚きつつ愛馬から降り立って近づいた。間近で見てみればいよいよ様子がおかしい。上着のパーカーは無残に引き裂かれてかろうじて引っ掛けているような状態であるし、下衣のジーンズもところどころ解れてぼろぼろだ。
―――まるで、何者かに襲われたかのような……
「セルティさん……」
ふらり、と頭を上げた帝人の疲れきったような顔にセルティはあわあわとPDAに文字を打ち込んだ。
『帝人、一体どうしたんだ! 誰にやられたんだこんな…』
「セルティさん……すみません…」
お風呂かしてください。
そう言って帝人は再び肩をがくりと落とした。
「だいたいひとの話も聞かないで! 自分は服脱いでおいて……あ、これは前着たまま変化してバーテン服一着駄目にしたときにこっぴどく怒ったから学習したんでしょうけど……それにしても、僕の服! 服だって安くないしそれに僕、あんまり服持ってないのに…」
一体どうしたのだ、と訊ねるセルティに。帝人はよっぽど腹に据えかねていたのか、堰を切ったように話しはじめた。
帝人を後ろに乗せて、セルティは今はバイクの姿をした愛馬を繰る。彼女は運転中は話すことは出来ないので、時折相槌を打つように頷くだけだが、帝人は気にすることもなくつらつらと話を続けていく。
帝人の話を整理するとこうだ。
昨日、仕事先から他の男の臭いをつけて帰ってきた(語弊があるような気もするが)帝人に対し、寝ぼけた静雄がその服を無理矢理剥いて臭いを消すべく全身を舐めまわした……と。
改めてこう纏めてみるとなんだかいかがわしいが、静雄の本性は黄金色の毛並みの狼である。絵面としては大きな犬にじゃれつかれている……といった感じだろうか。
ひとしきり舐めた後に、静雄は獣姿のまま帝人を抱き込んで眠ってしまったらしい。
*****
それにしても、と。セルティは傍らで自分に告げていた文句と同じような説明を今度は新羅へと訴えている少年を眺めながら考える。
帝人が怒っているのは主に服を駄目にされたことについてであり、次に昨日のうちに風呂に入れなかったことであるようだ。
―――舐められたことはスルーなんだな……いいのか、それは
そんな疑問をPDAに打ち込みかけて……やめた。なんだか藪蛇な気がしたからだ。
帝人に掛けられた呪縛をどうにか自力で解いたかのあやかしが、あるじの匂いを辿ってたどり着いたこの家の玄関を蹴破るのは、約1時間後のことである。