終壊
チャイムは鳴らさず、ロックを外してゆっくりとエントランスに入る。エレベーターのボタンを押したがどれも上の階で止まっていてすぐには来なさそうだったので、俺は今日何度目かの全力疾走で階段を駆け上がった。何十、何百、何千かもしれない、そんな途方も無い数。早く、早く臨也に会いたい。怒られるのは後にして。辿り着いた時にはすっかり息が上がっていて、膝も煩く悲鳴をあげているくらいだった。
「……」
珍しく鍵がかかっていたので、財布の中からカードキーを出して差し込む。静かに俺を迎え入れた懐かしい自宅を見回し、臨也の気配を探る。俺だけが持つ独特の世界を侵す音。その方向に、必ず臨也は居る。事務所の方、何時も臨也が座っている肘掛け椅子辺りから感じられて真っ直ぐに向かう。仕事中だろうかと慎重に扉を開け、隙間から中を覗くと臨也はパソコンに向かいながら誰かと電話していた。
「ええ、勿論……なんでしたら契約中は優先させるように申し出ても宜しいですよ。……はい。受け賜りました、では、そのように」
臨也は受話器を置くと今度は違う場所にかけ始めた。横顔だからよく判らないが、どうも疲れている様子なのでちくりと胸が痛んだ。
「……ああ、こんばんは。情報屋の折原です。首尾よく運んでくれたようですね。いえいえ、そちらの功績ですよ。ご所望はお父上の……でしたよね? ええすぐにでも。……安心してください聖辺さん。きっと良い結果が待ってますから……」
眼を見開く。疲れを隠した臨也の声が、はっきりとあの女性の名前を紡いだ。臨也と聖辺は知り合いだったのだろうか? いや、最初に情報屋の折原、って名乗ったから、依頼人とか? それに父親の……って、家族ぐるみで幽と付き合いがあったんじゃなかったのか?
俺が色々考えている中、臨也は空で暗記しているようにまた別の電話を取った。
「おやそちらからお電話をくださるとは。……え? ああ。だから言ったでしょう、悪巧みは程ほどにしないとって。貴方の首が飛ぼうが繋がろうが私は干渉しないと。まあ羽島君も貴方の事はお気に召していなかったようですし、今更貴方の不正がバレた所でチーフの為に心を痛めるような事はしないでしょう。私の忠告はお聞き入れてくださらなかったのですね。……まあ、今日貴方を首にする原因を作った子、俺のものなんですよね。そういう意味で、運が無かったという事で。次の職探しには協力して差し上げますよ」
直感した。臨也が話しているのは今日俺が接触した人間だ。
なんで、と一瞬思ったが、考えればすぐ判る事だ。つまり臨也は、俺がきちんと出来るように、影で手伝ってくれたと、言うこと。会話の内容から察したのはその答え。臨也はやっぱり正しい。机に積まれている膨大な資料は、全部、俺が今日を生きる為に集めてくれた情報だろうか。
臨也が余裕を装った電話を一方的に切ると、すぐに臨也はふうと息を吐いた。我慢出来なくなって、扉を開けて中に入ると、俺に気付かなかったのか臨也が俺を見て眼を見開いた。かける言葉が見つからなかった俺は、至極普通な言葉を、何時も通りに発音した。
「た、ただいま」
行き先も告げずに、勝手に外に出た事は怒られるだろうな。叱られるのをあらかじめ覚悟しておくと、その後の行動は割と勢いよく出来るものだ。
小走りに臨也の方に近付いて、テストで満点が取れた子供のようにあどけない表情で、俺は小声で囁いた。
「終わらせて、きた。から。臨也はなんにも心配しなくて良い」
「……」
近くで見ると、臨也の目元には隠しきれない疲労の色があって、俺が居ない間どれだけ頑張ってくれたんだろうかと思うと申し訳なさでいっぱいになる。
「……これだけ心配かけといてさ」
「っ、そう、ごめん」
「今更心配するなっていうのは無いんじゃない?」
呆れたように笑った臨也は椅子から立ち上がりながら「これからも心配し続けるよ、シズちゃんの事はね」と歌うように言った。
「怒ってないから顔上げて」
「う……」
「ずっと頑張ったシズちゃんに言う練習してたんだから」
なんの事かと思い、思わず下げていた目線を戻す。すると臨也は何時もと同じかそれ以上に柔らかく笑って、一言。
「おかえり」
広げられた腕に、考える暇もなく俺は飛び込み、抱き着いていた。やっと、此処が俺の、帰る場所。
「臨也、臨也ぁ……」
緊張の糸が切れて俺はぼろぼろと泣き出してしまった。この温もりが欲しかった。俺だけのものが欲しかった。臨也は俺の唯一なんだ。
「おかえりシズちゃん。ずっと、ずっと待ってたよ……?」
「う、っぐ、……いざや、ざやっ……俺、臨也が、すきだ……今日、改めてそう、思ったんだっ……」
俺の唯一にして、俺の絶対。俺は臨也無しじゃ生きられない。臨也が此処に居てくれる事が、俺が生きられる力になる。臨也が出て行った時は俺が待って、俺が出て行った時は臨也が待っていてくれる。それがこんなにも強くて美しいものなのだと、これは今日、臨也が教えてくれた事だ。一緒には居なかったけど、臨也の意思が反映されて今日の結果に結びついた。俺の中では揺ぎ無いすべてだ。
「臨也好きだ、大好きだ……!」
痛む喉もどうでも良くて、ただ触れるだけのキスを何度も重ねる。臨也とこれだけ離れると、俺はその分飢えてしまうんだ。
「大好きだよ、俺も。俺のシズちゃん……ずっと抱き締めてあげるから、シズちゃんも、離れないで?」
「ん……ぅ、ん……! いぁ、や、いざ、臨也……」
俺が出来ない事を臨也が補ってくれる。臨也が出来ない事を俺は助ける。そうやっていけば、臨也と一緒に、ずっと居られるだろうか。臨也と迎えられない終わりは、俺が、壊すだけ。
「ね、シズちゃん」
「……なんだ?」
「俺疲れちゃったからちょっと寝たいな。久しぶりに一緒に寝よ?」
「ん……良いよ」
早朝に活動し始めた事も、人様の家で寝た事もあって俺は既に眠たかったので、臨也に抱えられた後もこくりと頷いた。ああ、このまま本気で寝入ってしまうかもしれない。朝も昼も何も食べていないのに。
まあでも、多分。胃よりも先にこの枯渇した愛情を埋める食事をする羽目になりそうなのは、誘いに頷いた時点で覚悟していたけど。
そこで、俺の戻ってきた日常に加えられたスパイスが震える。
ポケットに突っ込んだままだった携帯が、静かに「平和島幽」からの着信を知らせた。
04初めまして、大好き!
(やっと会えたね、運命の人)
病欲派生 「終壊」
了