愛し恋しと
対して戸を開いた三成は眉根を寄せて、「私が秀吉様の砦に傷をつけるものか」といつも通りの受け答えをした。
まるで普段通りのやり取りに、少しだけ肩の力を抜きそうになる。が、そのまま室内へ入り、閉めた戸に掴んでいた刀と背を預けてこちらを見据える男の姿に、あっという間に焦燥を引き戻された。
「……な、んだその姿勢は」
「貴様が逃げ出さんようにだ」
侮るような口調に、家康は目線を鋭くした。この男と対等でいられないのは我慢ならない。
「馬鹿にしているのか?」
「そのつもりがないなら良い」
そう言って戸から離れた三成は、室内で警戒しながら立っている家康に近づく。逃げ場のなくなった以上は、突っぱねるしかない。家康は普段は朗らかな顔立ちに険を乗せて、三成を睨んだ。
だが、その虚勢は即座に引き剥がされた。
何の躊躇いもなく間合いを詰めた三成が、意地でも逃げまいとする家康を見下ろして、
「女の顔だな」
呟くように言ったのだ。
家康は、瞬時に激昂した。
「何なんだいきなり!ワシは、今までだって」
「私は貴様が男だろうが女だろうがどうでもいい。だが、」
三成の骨ばった手が家康の顎を持ち上げた。咄嗟に動けなかった家康は、首を振り切って逃げようとして抑え込む力に眉根を寄せる。家康の厭う、柔らかな肌を遠慮のない力で見分するように持ち上げながら、三成は言う。
「弱きは罪だ。秀吉様の軍に相応しくない。貴様のその顔は弱すぎる」
「―――誰のせいだと思っている!」
家康はとうとう叫んだ。
「ワシは知らなかった!お前のせいだ、お前のせいじゃないか!」
自分でも滅茶苦茶なことを言っているとは思ったが、家康は勢いのまま眼の前の男をなじった。
「お前は一度も言わなかった、ワシを侮らなかった、一度も嘘をつかなかった、そうだお前はいつだってそう言ってたんだ、ワシが男でも女でも何でも構わないと全身で言っていた!そんなの――そんなの、……ずるいじゃないか、三成……」
最後には消え入るような声で家康は呟いた。
敵だった男、もしかしたらこの先に再び対峙することすらあるかもしれない男が、隣にあって何の計算も嘘も纏わずに言葉を交わす。家康を家康そのものとして認め、それ以外の一切の要素は考えずに、段々と家康を対等な者として迎え入れていく。
得難いと、思わないほうが、おかしい。
「……お前のせいでワシは弱くなる」
三成は家康の言葉を、途中から不快げな表情を浮かべて聞いていた。家康はせめて視線だけは逸らすまいと、その胸を抉るような顔を見返す。
「貴様の言うことは支離滅裂だな」
家康はふ、と自嘲の笑みを浮かべた。だが続けて三成が言う。
「女だ男だと、いつまでも煩いことを言う。どちらでも変わらん。秀吉様に捧げる力のみが総てだ。そして貴様は断じて弱くはないだろうが」
家康は、弱い顔だの女の顔だのと散々言ってくれた男が返した肯定に眼を丸くする。
「そうでなければ貴様とほぼ同じ働きをしている私はどうなる?」
不満げな顔を向けられて、家康は言葉を絞り出した。
「それは、……だから、何と言うか、武力ではなくて、だな……」
思いがけない話の流れに視線を彷徨わせた家康をしばし見つめ、
「もういい。さっさと普段の貴様に戻れ」
そんなことを言いながら、三成はごく自然に掴んでいた顎を持ち上げ、家康の唇を啄ばんだ。
次にその手を斜めに動かして上向いた右頬を舐め、そのまま這うようにして、耳の下の首筋へ。ふ、とかすかな息が家康の耳を擽る。
このあたりでようやく、硬直しきっていた家康が動いた。
「う、わああああ!?ちょ、待て、待て三成何をやって」
慌てて両腕を振り上げた家康が大声をあげて開いた唇に、もう一度三成が口づける。
「ん、―――ぐ、む、……うううう!」
何とも色気のない呻き方をして、筋が出るほど強張った腕を突っぱねる家康に、さすがに三成も眉をひそめた。それでも対して構わずに服の合わせ目から手を差し入れて、鍛えられた硬い腹を指で緩く押しながら腰骨を掴む。背へ回った指で腰の裏を撫ぜると、途端、がくりと家康の膝が落ちた。それを支えるようにして、力の抜けた家康の足の間に膝を割りいれる。床に崩れることも自重を支えることも出来なくなった家康は、懸命に首を振りながら再び喉の奥から喚いた。
その反応にいよいよ煩わしさを覚えた三成は、遠慮なく差し込んでいた舌を抜き取って、その瞬間に慌てて唇を引き結んだ家康の顔を見やる。ただし膝の上に乗り上げたような格好から逃げようとするのは、腰を押さえて引き留めた。
家康は戦慄くように細かく震えながら、紅潮させた顔を隠しもせずに三成を睨みあげていた。だがその眼は水の膜を浮かべて、ゆらゆらと忙しなく揺れている。色めいたというよりは、いっそ幼いようなその顔を見返して、三成は言った。
「物欲しげな顔をしておいて何だ」
家康は思った。
この男を撲殺する許可をくれないだろうか秀吉公。
「だ、れ、が!いつそんな顔をした!」
「私の部屋の傍で」
あまりの衝撃に忘れかけていたことを告げられて、家康は絶句した。
そして、否定の言葉を叩きつけることができなかった。
あの瞬間に己が浮かべていた顔、三成を驚愕させたであろう顔。
嫉妬というものが声を持つのなら、それは確かにこの男が欲しいと哭いている。
「満たされたなら戻るのだろう?」
さらりとそんなことを言う男は、家康が見せたその顔の含む意味をわかっているのか、いないのか。
誰かを恋しいと哭く、そんな獣の声は、透き通るお前の内部の何処にもあるまい。
そしてないものを理解することなど、人には出来るはずもない。自ら答えを突き付けて、家康は笑った。笑ってしまった。
笑みは許容の表れだ。
無言の了解を得て、三成は再び家康のひび割れてかさついた唇を舐めた。並みの女のしっとりと吸いつくようなそれとは違い、小さな棘に触れたようなその感触は、何故か三成を少し安心させた。
静かに床へ横たえた時、家康は小さく「女になったら戦えないだろうか」と呟いた。とてもか細い声だった。三成は馬鹿らしいと思った。貴様はもう戦っているではないか、と答えれば、家康は吐息のような笑みを零して、こう言った。
こんなつもりはなかったんだ。
なかったはずなんだ。
その言葉に滴る程に含まれた、愛しい恋しいと哭く声は、受け入れる器を持たない三成の内には届かないままだった。