愛し恋しと
和睦という形であるにしろ、どちらかといえば敗北に近い立場であった将を迎えるならば、侮りであれ敵意であれ満足であれ、何がしかの色は抱えるものだ。さらには、他にも例はあるにしろそれなりに珍しい女の総大将である。奇異の眼で見られることにも慣れていた。
家康は、人が内部に隠したそういう色を読み解くことに長けていた。そうでなければ生き抜くことが難しかった。
その家康の眼から見て、男はまるで隠すもののない透明な生き物のように思えた。
だが家康に興味がないわけではなかったのだと、玉座に在る秀吉が口を開いた瞬間に家康は悟った。覇王が家康へ恭順を促す声を聞きながら、男はそれまで何の色も浮かべていなかった顔に、明らかな喜色を浮かべたのだ。まるでその声が遥か天上から降り注いでいるのだとでも言わんばかりだった。
家康に興味がないのではなく、他の一点に総てを傾けているだけなのだと、一瞬のうちに知れてしまった。これが家康であれ他の将であれ、この男の対応は変わらないに違いない。
こんなにも明け透けな男が、将だったのか。
家康は覇王の言葉よりもむしろ、そちらのほうに気を取られていたかもしれない。
そして半ば予想していた通り、三成は家康の性が己とは異なる点について、全く何も気にしはしなかった。戦場でも容赦なく家康を煽りたて、怪我をしようが功をたてようが顧みることもなく、単に同じ豊臣の将として言葉を交わす。
「……ワシは案外、それが楽だったのだぞ」
もう一度愚痴のように零す。それが、何だ。いまさらになって戦場で、たかが笑ってみせたくらいで。よりにもよってお前が、ワシを女だとそう言うのか。
何かはっきりと理由がわからないままに、家康は段々と怒りに近い感情を抱き始めた。もとより家康は、鬱屈を抱えることが得意ではない。こうなったら直接文句を言ってやろうと、文句の内容も決めないままに立ちあがった家康は、よし、と両手を握って気合を込めた。
三成の居室は知っている。同輩として過ごすようになり、幾度か足を運んだことがあった。三成は家康の不意の訪問に厭そうな顔をしながらも、わりと大人しく受け入れるのだ。
早足の大股で回廊を歩いていた家康は、すぐそこが目的地という場所まで来てふと足を止めた。
何か、見慣れない色が、視界を過ぎったような。
それを追うようにして視線を動かすと、回廊の端をひらりと蝶のように色布が舞うのが見えた。
見えたと思った瞬間には折れた回廊の先へ消えてしまったその着物の、鮮やかな色ばかりが眼に残る。平時であればまず、ここにはないであろうものだ。
――気付けば唾を呑んでいた。それまでの大股を一転して足音を殺すような抜き足にして、家康はその色が消えて行った先へと進む。
三成の居室へと。
いつのまにか跳ね始めた心臓が警告しようとする内容を捩じ伏せて、強いて何も考えないように頭を空にする。
家康は、思考を止めることこそ最も人間が行ってはならないことだと思っていた。常に戦乱の終わりを求めて足掻いてきた家康は、無駄と言われようとも、この両手で取りこぼしたものはないかと、もっと掬えるものはないかと、考え続けることを己に課している。
だが今、家康は思考を停止させて回廊を歩んでいた。その先にあるものを前に、なぜ足を進めているのか不思議だった。常であれば、すぐに来た道を帰っているに違いないのに。
かすかな物音がする。密やかな声がぼそぼそと何事かを囁いている。
女の高く柔らかい、全身を撫でて擽るような声音。鈴が鳴るようなと表現される、ころころとした笑みが漏れている。
家康はそこで足を止めた。というよりも、とうとう足が進まなくなった。
この砦に常駐する者ではあるまい。その女が何を目的としてこの場へ呼び寄せられたものか、想像はつく。
そうして固まった家康の前で、回廊の先の見知った居室が甲高い音をたてて戸を開く。そこから戯れるように飛び出した蝶の羽のような着物が、それを纏うほの白い女の指先が宙を彷徨い、一瞬のうちに引き戻されてまた室内へ消えた。女は逃げたわけではないらしく、密やかに笑う声が続く。
「――戯れるな、」
常とは変わらぬ男の、淡々とした声が響いた。聞き慣れた声音は面倒だと不満を告げてはいたが、さらにその奥に潜んだ艶めいた色を、家康は読み取ってしまった。
その瞬間に己を襲った衝撃に、家康は芯から冷えるような恐れを抱いた。あ、と知らずに呻きが漏れる。両手で己の口を押さえ、それを必死で押しとどめた。
戻らなければ。瞬時にそう思った家康が踵を返そうとすると同時に、男が不意に戸の外へと顔を出した。おそらくは先程開け放たれたそれを閉めようとしたのだろう、そのついでという様子で一瞬回廊へ視線を流した三成は、当然のように回廊の端で立ち尽くす家康を見つけた。
その眼が珍しくもはっきりと驚愕を見せた瞬間に、家康は後ろを振り返らずに駆け出した。
負け戦よりもひどい逃げ方をして、家康は自分の居室に飛び込んだ。そのまま後ろ手で戸を押さえる。
どうすればいい、どうすれば!頭の中をそればかりが駆け廻っている。
家康は視線を交わした瞬間に、三成が浮かべた驚愕の意味すら悟っていた。あれは単に、家康がまるで盗み聞きのような真似をしていたことに対する驚きではない。
その際に家康が浮かべていた表情を――感情を、三成もまた読んだのだ。だから三成はいつものように、透明に、純粋にその驚きを表してみせた。
だって知らなかった。
あんなに泣きたくなるものだなんて知らなかった。
家康は己がつい先程見せつけただろう顔を、知らぬふりをすることができない。知っていたなら隠し通しただろう、だが家康は三成と同時に気付いてしまった。
――まるで女のような顔をしてワシは、
「家康」
冷たいようで、実は極度に澄んでいるだけの、いつもの透き通る声が唐突に響く。
家康は全身を震わせた。戸一枚向こうに、逃れられない何かが立っている。
「そこを退け。開けろ」
「無理だ」
家康は、ひと言返すだけで呼吸を荒くしなければならなかった。
「だめだ。三成、戻ってくれ」
「呼んでおいてよく言うものだな」
三成は、人の心に鈍いようでいて、時折妙に鋭い。しかし今ばかりは知らぬふりをしてくれてもいいだろうにと、家康は顔を歪めて首を振った。
「駄目だ、わかるだろう、三成、さっきのは―――駄目だ」
「わからん。貴様、話す気があるのか」
「ない!ないから戻ってくれ」
「……家康」
名を呼ばないでくれと叫びそうになるのを堪える。家康がそうして言葉に詰まっているうちに、
「良い度胸だ。が、籠った時点で貴様の負けだな」
まるで戦のような言い方をした男の声が不穏な色を帯びる。瞬間に、家康は押さえていた戸の前を飛びすさって離れた。刃の切っ先が走る音が聞こえたのだ。そして放たれた殺気に、武将としての本能が距離を取らずにはいられなかった。
だが、戸は切り刻まれることもなく、あっさりと手で開かれた。
思わず両腕を構えてしまっていた家康は、それまでの焦燥や混乱も一瞬忘れて、
「ずるいぞ三成!」と叫んだ。