溺れる者たち
気持ちがすれ違い始めてからも、俺たちの付き合いはずるずると続き、季節は冬になった。行為のこと以外では、三郎はとくにおかしな行動をとるわけじゃなかったし、大学だって普通に行っていた。友人たちの前では、俺たちはまだ、普通の恋人同士のままだった。
その日も、俺は三郎の部屋に寄った。彼の気に入りのソファに座って、適当に持っていた雑誌を捲っていた。三郎がキッチンから出てきて、ソファのサイドテーブルにカップを置いた。それから俺に覆いかぶさってきた。うなじにキスをして、強く歯を立てる。大した痛みじゃなかったけど、行為に敏感になっていた俺は、反射的に三郎を振り払ってしまった。ガタン、と音がして、カップが倒れたのがわかった。
「……ごめん」
俺は小さな声で謝った。でも、俺がとっさに三郎を拒絶してしまったことは、ごまかしようがなかった。倒れたカップから、コーヒーがみるみる広がっていく。三郎は目に見えて悲しそうな顔をした。俺が彼のこうした行為を拒むようになってから、ずっとだ。なんで拒絶されるのか、わからないというのだった。
「そういうことされると、余計、痛いことしたくなる。兵助」
「なんでそうなるんだよ……。俺は、離れていかない。そう言ってるし、今だってここにいる……」
「わかってる」
三郎はかぶりを振った。
「だけど、俺は不安なんだよ……」
「不安なら、言葉で話せばいい。俺は……お前を拒みたいわけじゃないよ。でも、お前のやり方は、まるで俺を痛みで脅してるみたいじゃないか……」
「そんなこと」
「してないって? じゃあ、さっきの台詞は? 三郎、俺はただ、もっと普通に」
「普通って何?」
三郎は苛立たしげに顔を歪めた。
「おまえの言ってること、よくわからないよ。俺はただ、不安なだけ……。おまえにここにいてほしいだけ。……怖いんだよ。安心させてくれ。俺を脅かさないで。俺の言うことを聞いてくれよ」
「俺の意思は!? おまえは俺を一方的に縛り付けて、それで満足なのか?」
「……なんでだろ?」
三郎は不意に俺をじっと見つめ、俺は胸が痛むのを感じた。彼があまりに、傷つきやすい、子供のように見えたから。心の防壁がはがれてしまっている目。あの喫煙室で、初めてキスをした時みたいに。三郎はのろのろと腕をあげ、掌で瞼を覆った。弱々しく。
「どうしたらいいのか、わからない。どういう風にしたら、普通ってことなの? 俺はただ、おまえがここから出て行っても、絶対に戻ってくるって保証がほしいだけなんだ。兵助、俺を怖がらせないで」
なんでこんなことになったんだろう、と俺は思った。今だってこんなに傍にいるのに。俺たちは、あんなに気が合ったのに。
彼とブレードランナーの話がしたかった。ポール・オースターの話がしたかった。手に入れたばかりの写真集の話がしたかった。熱いコーヒーを一緒に飲んで、それからキスをしたかった。傍にいたかった。
どうしてそれだけじゃだめなのか、わからない。いつか離れてしまうのが怖いと、俺の心が変わるかもしれないというのなら、そんなの、俺だって同じ条件なのに。おまえの心変わりが怖い。おまえと離れてしまうのが怖い。それに比べたら、本当は体の傷なんて、何ほどのこともない。
三郎は片膝を引き寄せて、自分を抱きかかえるように蹲った。俺は、その肩を抱きしめてやりたかった。大丈夫だと言って、慰めたい。けれどそうしても、三郎はわかっていると言いながら、また俺の手を、痕が残るまで縛るだろう。ベッドの柱に繋いで、今度こそ離さないと言って泣くだろう。俺は夜明けまで抵抗し続け、ふたりとも疲れ切った頃、ようやく紐がほどかれるのだ。そしてまた、明日の晩には同じように言いあい、三郎は泣きながら俺を抱く。堂々巡りだ。いつまで続くだろう。こんなことが、いつまで?
「三郎……」
つぶやいた俺の声は、自分でもびっくりするほど、苦々しく響いた。
三郎は顔を上げず、小さな声でこう聞いた。
「兵助。もう、俺が嫌になった?」
俺は黙って首を振った。しばらく経って、三郎は続けた。
「いなくならないで、兵助」
俺は突然、ひどく悲しくなった。
三郎おまえ、わかんないの?
傷つけられるのがつらいんじゃない。それを許してしまいそうなのが怖いんだ。だって、それを許したらその先は? その先の先は? 今はまだいい。夜明けが来れば、俺たちは泣きながらでも、紐をほどくことが出来る。学校に行って、友達と冗談を言い合ったり出来る。別々のふたりとして。けれど、いつか朝が来ても、お互いの手を離せなくなってしまったら。二度と外の世界に戻らなくていいと思ってしまったら。俺たちはふたりで、底のない沼に沈むしかない。誰かを絶対に失わないですむ保証なんて、世界中のどこにある?
もしあるなら俺は、とっくにそこに行ってる。三郎のために。三郎に笑ってもらうために。彼の怯えを消し去るために。とっくに行ってる。
視界の端に、転がったコーヒーカップが見えた。ぶちまけられた液体のように、俺たちの心も投げ出されたまま、帰るべき場所がわからないでいる。