溺れる者たち
バイトや授業がない間は、俺はほとんど三郎の部屋で過ごした。夜となく昼となく抱き合うのも、キスをするのも、楽しいばかりだった。
俺たちは、うまくいっていたと思う。少なくとも、主観では。
友達としての付き合いに、キスとセックスが増えただけ。いわば、気持ちいいことだけが。
俺はどうして、そんな風に思っていられたんだろう?
大勢の中の友達のひとり、仲の良い気のいい相手。そんな風に思えている間と、世界じゅうでたったひとりの相手になってしまうことの、絶望的なほどの意味の違いを。
三郎が俺の体にふれる。
瞼にくちづけて、頭を抱きかかえて、閉じ込めるように。
その胸が痛くなるような、必死さの意味。
*
少しずつ異変を感じ出したのは、秋になってからだった。
バイトがあるから、と言って、早めに三郎の家を出ようとした俺を、彼は不安そうに見ていた。自分では認めたがらなかったけれど、三郎はひどい寂しがりやだったから、めずらしいことではなかったけど、その日はいつもより度が過ぎているように見えて、気になったのを覚えている。けれど時間が迫っていたので、ごめんな、終わったらまた寄るから、とだけ言って、俺はそのまま出て行ったのだ。
その夜三郎は、行為の中で俺の肌を強く噛んだ。出血して痕がついた傷口を、彼は丹念になめた。
(ごめん、兵助。加減がきかなくて)
彼はすまなそうに謝ってくれた。俺は、笑って三郎の頭を撫でた。
初めはそれだけだった。俺が授業やサークルの用事を優先して、三郎の家に寄らなかった時や、泊まるのを拒んだ時。拗ねてるだけだと三郎は言ったし、俺にも、まだ笑っていられる余裕があった。抗議すれば彼はすぐにやめたし、傷といっても大したことはなかったから。
ある時、三郎は俺の手を縛った。最初は本当に、ちょっと思いついてやってみただけ、という感じだった。けれど肌に食い込む紐は日に日に強くなり、俺の手首にはしばらく消えない痕がつき始めた。三郎はその痕を、ひどくいとしそうになめた。
三郎はそんな風に、行為のたびに少しずつ、俺の体に傷をつけたがるようになった。傷つけたあとは、不思議なほどやさしくなって、傷の手当をする。段々、俺は不安になってきていた。
「なんでそんなこと、するんだ?」
そう言うと、三郎は笑った。
「なんで? なんでって?」
痙攣するように、三郎の唇が震えた。まるで彼のほうこそ、底のない不安に怯えている人みたいに。
「ここにいてほしいだけだよ、おまえに」
ことわっておくけど、三郎は加虐趣味ってわけじゃなかったと思う。おかしくなり始めるまで、そんなそぶりはまるで見えなかったし、俺に傷をつけるとき、彼はどこか怯えた目をしていた。不安。心の奥底に、あらかじめ刻まれた不安。決して修復できない、ヒビのように。
三郎は信じてなかった。あっさりと自分の母親であることをやめてしまった人も、それに良く似ているらしい自分のことも。そして多分、距離が近くなっていくほど、自分との共通点を見つければ見つけるほど、俺のことも信じられなくなっていったのかもしれない。彼を捨てていく人。まるで服を着替えるように、簡単に、自分自身と見まごうほどに近しい身内から、まったくの他人になってしまう人。今度はこの恋人がそうでないと、どうしたら言い切れる?
俺は、友達の言葉を思い出していた。
(気をつけなよ、兵助。似てることに追い詰められないように)
勘右衛門は、三郎の母親の話なんて知らなかったろう。けれどカンの鋭い彼は、直感的にこの恋に潜んだ危うさを感じ取っていたんだろうか?