揺り篭 第一部
菊はまっすぐに顔を上げて冴えた表情で口元を歪めた。年齢不詳の幼い面差しに老獪な相貌で見つめ返されると肝胆から総毛立つ。
「そんなものはどうでもいいんです。だけど…」
菊は無意識に自分の胸を押さえながら吐き捨てるように言った。
「本来あるべき因果を曲げて、在り得ない再生が齎す苦しみは−−」
−−地獄です。
アーサーの細い肢体を抱く手に力が篭る。
エゴを押し付けているのは俺の方だ。不自由な運命に彼を縛り付けている枷はこの両腕だ。未曾有の苦しみの源にいつか彼は気づいてしまうだろう。
今迫られているのはそういう覚悟なんだ。
ナイフはその背を貫いて異物を拒む術を知らない肉に侵食していく。
血塗れの触媒を押し込む手に落ちる雫は罪を洗い流すには足りる筈もなく赫に変わり、赦しを請う声は悲鳴に飲み込まれていく。紡がれる呪文は愛の詞でなく醜い強欲に彩られ蝕む。
熔けた結晶は身勝手に傷を塞ぎ細胞を再構築しながら何食わぬ顔をして彼の一部になっていくのだろう。
贖罪にもならない接吻け。
エントロピーを増した悪夢は不可逆にエネルギーを吸い上げて渇望した出口を目指す。溢れ返る光が大きく翼を広げ風を纏う。無秩序な力は出鱈目に手当たり次第傷つける破壊の天使だ。
癇癪を起こした小さなアーサーに似ている。
眩んだ視界が赤に塗り潰されて行く−−。
創めて見た世界は拒絶だった。
喉が裂けてしまったみたいだ。
意味のない擦過音が肺から追い出された空気に鞴のように鳴らされている。
それから噎せ返るような金臭い血の匂いに混じる甘やかな花の香りがささくれ立った気持ちを宥めるように俺を抱き締めてくれた。
ずっとこんな風に手を離さずに居てくれたのに。
俺が殺した。
混乱した記憶が小さな俺を責め立てる。
「フラン…フラン……」
最後に見たのは傷ついた大切な人。素直に愛を請う事ができない苛立ちが彼を殺した。
そうして鍵を架けたんだ。
「あ…」
色のない雑音から引き摺り出された意識。
耳元で繰り返される懐かしい音、遠くに聞こえる泣き声。重みと温度。
「おかえり、アート」
ぎゅっと掴んだ腕の質量に漏らした安堵の溜息はほんの微かだったのに。
「フラン?」
部屋の中は酷い有様だった。菊が何か叫んでるけれど耳鳴りがまだ酷くてよく聞こえない。頭まで酸素、行ってない感じ。夥しい出血で自分達を中心に地獄絵図のようだ。
舌が痺れて上手く口が回らない。
真っ赤に濡れたフランシスの頬に触れると自分の手も既に同じ色でベタベタで混ざり合って一つの色になった。
さっきから、動かない。
恐る恐る指を差し伸べてもその蒼は。
「フラ、ン…お前…目…」
間近にある障害にも反射しない瞳孔は焦点を失って在らぬ方を向いたまま。
意味を成さない絶叫が闇の中で哀しく響いた。
Pierrot「BIRTHDAY」