揺り篭 第一部
無意識のうちに取り込まれたエネルギーは出口を探して彼の中を暴れ回る。彼の知らないところで彼の器を蝕み食い尽くし壊していく。
俺達の立てた予測を遥かに上回って。
抗えない運命は祈りも嘆きも軽く嘲って俺からこの人を奪おうとする。
「アーサーにはきっと寂しい思いを一杯させたよね。でもこうするしかなかったんだ」
彼を守れるのならなんでもすると誓った。
「君は狡いな」
アルフレッドは立ち上がり俺が抱えたアーサーの髪を梳ると背中と膝裏に腕を差し入れて簡単に抱き上げた。ぎゅっと力を込めた腕の中でアーサーが身動ぎしてしっくりくる場所を探しているようだ。アルフがいいよ、寝ててと小さく囁くと理解できたのか眠ったまま少し安心したような表情を見せる。
「アルフレッド」
「ベッドに寝かせてあげた方が体には障らないだろ」
軽い足取りで扉を抜けて廊下に消えていった。
塞がった両手で目的の部屋の扉が開けられないことに彼が気がつくまで後3分。
黄金の続く草原を手を引かれ歩いていく。
いつの間にか喪った道は先が見えず一歩踏み出せば重力を失ってまっ逆さまに堕ちてしまう恐怖に竦みそうになるのに、たった一つ小さな手がそれを支えてる。
「アル」
守るべき存在。
要らなくなった俺が今生きているたった一つの理由。
振り返らない小さな背中はいつかこの手を振り払って行ってしまうのにそんなこと信じてた。
「アル!」
泥濘んだ土に足を取られそうになりながら再度強く呼び掛けたつもりだった。だけどその声は音になる前に静寂に吸い取られ何処にも届かない。
ここは光に溢れ過ぎていて−−暗い。
どれくらいこうしているのだろう。もう脚には力がなくこれ以上は何処にも行けないと崩れそうになってる。喘ぐ呼吸の音だけが耳障りだ。
もういいからその手を離して欲しい。
追い掛けてくる闇に抱かれて何もかも忘れて眠ってしまえばいい。
最初から何もなかった。
血に塗れた両手を救い上げてくれた人もこの手で壊してしまった。
それでもまだ生きていたいのか?
絶望の深淵で侮蔑の嗤みを浮かべたクロライト。
ひゅっと吸い込んだ空気が立てた鋭い音。
「あ…」
四肢に懸かる重みが辛うじて現実に錨を下ろし繋ぎ止めた。
見開いた蒼穹に映る自分と目が合ってギクリと心臓が跳ねた。
「アル…」
奪われた声はその先を紡げなかった。零の距離で感じる熱は知らない男のもので酷く熱くて灼枯れた脳髄を射竦めて縫い留める。心臓が煩い。
ぐっと瞑った瞳の裏に投影る幼子の手は放れ困惑に飲み込まれ真っ白。
汗ばんだ肌に張り付く髪が煩わしい。シーツに移った温もりはぬるく、発熱した體を冷やすことなくじっとりと塞込み燃え尽きてしまいそう。
酸素を求めて上下する胸腔を大きな手が宥めるように一つ往復するともう一度軽く触れた柔らかい粘膜を最後に圧迫は去り心音は一つになった。
「御免」
嵐の余韻もなく甘く届いた謝罪が泣いているようで眼を開ける。
いつかにもこんなことがあった。
それは努めて忘れていた記憶の一番上に乗って俺が振り返るのを待っていた。
「もうなにもしないから眠っていいよ」
ずっと錯覚していた温度は誰のもの?
何重にも鍵を架けた鎖に護られた記憶に問い掛けても答えはなかった。
夜に映える白い司教服は何故か彼が着ると死を匂わせる。
上天に浮かぶ切っ先のような下限の月を背負って彼は紅い瞳を細めて私の姿を振り仰ぐと少年のように無邪気に破顔して見せた。
「神に祈るなんて柄でもありませんね」
不遜にして敬虔。相反する業をいとも簡単に両肩に乗せて泰然自若として在る姿はいつでも美しかった。
敷布もなく床に脚を投げ出した隣に腰を下ろして天蓋を覆う紺碧に身を委ねる。
「神様の所為にでもしねえとやってらんねえだろ」
「倣岸な方だ」
許しを請うように触れる指に頬を寄せてやる。どうして普段は遠慮の文字なんて知らない人なのに二人きりになるとこんなにも私を恐れるのでしょうね。罪果の味を知って血色に染まった眼球の中の漆黒は禍々しく歪なのに、恭しく高貴な存在を前にしたように頭を垂れる。
「月が…綺麗ですね」
近づく距離が影を落とす。
絡めた指に力が篭り−−。
「ヴェー!?」
−−べしゃっという情けない音が降ってきた。
ああ…なんかこんな光景、前にもありましたよね。遠い目になる。
「フェ、フェリちゃん…」
「なんてフラグクラッシャー…」
流石に気拙い空気を察したのか正座で小さくなるフェリシアーノ君と涙目のギルベルト君の対比に無性に笑いが込み上げてくる。
呆気に取られた二人を置いて一頻り引き攣る横隔膜に悶える私の姿に駈け付けたルートヴィッヒさんがぎょっとしてるけれどどうにも止まりません。菊が壊れたとオロオロするフェリシアーノ君に背中を優しく摩られながら涙を拭う。
「さあ、参りましょうか」
きっぱりと立ち上がり背筋を伸ばすといつもの私は出来得る限り明るい未来がこの先に続くのだと思い描ける今に感謝した。
白い布に包まれた肌に刻まれた傷痕にキスで触れる。
「フラン…」
苦痛を一時的に取り除く薬物は幾らでもあったけれど後々の負担と影響を考えて却下した。アーサー自身もほとんど力の入らない手で拒絶だけはしっかり訴えるのだから尊重したかった。
「ん?寒い?」
こんな姿の坊ちゃんを人目に晒したくないので菊ちゃん以外は追い出した。アルフは最後まで抵抗していたがルードヴィッヒが担いで持ってった。
ただ衣類を身につけていないからだけでなく、できる範囲で少しでも楽にできればと菊が少しずつ体温を下げていってるから、まだ意識がはっきりしている今は寒く感じるのかもしれない。平気と小さく呟いたけれど震える指は酷く冷たい。
「俺、こんなで御免な」
彼はこれから行われることの詳細についての説明を求めなかった。自分自身の体だ。理屈は解らなくても感じる異常は誤魔化し切れない。どんなに明るく振舞って見せても塞ぎ込みがちになるのは仕方ないのだが、それ以上に事あるごとにアーサーは俺達の手を煩わせていることが気になって仕方ないようだ。
「馬鹿だねえ、坊ちゃんは」
額を押し当てて翠玉を覗き込む。
「俺の人生はアートの為にあるんだよ?」
最初からそう決まっていたんだ。
ぐしぐじと唇を噛んでいたアーサーは一瞬ぽかんとして言われた台詞を脳内に反芻した後に一瞬で耳の付け根まで真っ赤に染まった。
「…えぇ?お兄さん、なんか変なこと言った?」
「…恥ずかしい台詞禁止ですよ、フランシスさん」
何故か菊まで頬を染めている。
菊はそっとアーサーと視線を合わせて優しく微笑むと子供にするように髪を撫でた。
「さあ、暫く眠りましょうね」
絶大な信頼を寄せる彼に不器用な笑顔を返すとその睫は長い影を落とした。二人のその姿はフェリシアーノの家にあった聖母子画のようだった。
「フランシスさんは覚悟はお済みですね」
ここからは神の領域。
菊の広げた生成りの綿布の中には二振りのダガー。道具として一般的な鉄や銀などの金属でなく淡い翠の晄を放つ見慣れない輝石でできた飾りの刃だ。
「禁忌だとか冒涜だとか」