雨 The rain and my foolish pain
marginal man、とマスターは流暢な発音で呟いた。
「文化の違う2つ以上のグループにいて、でもどちらにも完全に所属できず、それぞれのグループの境界線にいる人のことだ」
ルカと僕のことだね! と大きな声で付け足して縁側からはみ出す足をぶらぶらとし、今年16の童顔を思いっきりきゅっとさせる。これはマスターが機嫌のいい時、或いはマスターのお母さんや誰かを機嫌よくさせたい時に作る表情で、きっと笑顔のつもりなのだろう。私もぎこちないながら笑みを返す。さっきからマスターが盛んに話しかけてくるので、集中できないまま時間が経ってしまった背後の庭に、今度こそ、と体を戻そうとして、しかしねえルカ! という言葉にまた阻まれた。なんです、と視線だけでマスターを捉えたら、マスターは頬を膨らまし、少しだけ拗ねている。
「ちゃんと話聞いてよ」
「聞いています。Marginal man。周辺人。境界人。ドイツの心理学者、Levinの言葉です」
「僕そんなこと言ってないし」
「言いましたよね? marginal manって」
「違う。ドイツの心理学者、とか言ってないし」
「それは補足です。会話の続きがしたいのでしょう? マスターと私が境界人で、それでどうしたのです?」
「呆れた! ルカは僕を馬鹿にしてるでしょ!」
「馬鹿になどしていません」
「Kidding!」
「だから違いますって、もう」
溜息と共に体ごと向き直すと、握っていたジョウロの水が、たぷりと揺れる。マスターが最近買ってくれた桃色のジョウロは、昨日の台風で泥が沢山ついてしまっていた。落としきれていなかった泥に気付いて払っていると、今度こそ無視された、と再び勘違いをしたマスターが英語混じりで何やらわめき出している。縁側に放り出された足をじたばたと、そんなところはまだ子どもらしくて可愛い。しかし一足しかないサンダルは私が履いてしまっているし、こちらへ来る様子もないので、今度こそ本当に無視して取りかかることにした。
私の今ある感情のほとんどは、目の前の花たちを世話していく過程で学習した。10メートル四方のこの家の大きな庭の端にある、畳二畳を縦に並べたような細長い花壇。初めてここへ来た日から、彼女たちの世話をするのは私の役目になっている。ここへ来た日、「ルカちゃんのために用意したのよ」と私の髪と同じ色のエプロンとスコップを渡して、マスターのお母さんは「庭はあっちだから」とそれは嬉しそうに言ったのが全ての始まりである。私のことを、どうやら庭いじりをするハウスロイドだと思っていたらしい。そんなんじゃないって! とあの日後ろから追いかけ訂正していたマスターが、私がせっせと庭いじりをする姿を見て後日不満だと言わんばかりの顔でこの桃色のジョウロをプレゼントしてくれた時、私は初めて声を出して笑ったものだ。こうして私は、マスターも公認の庭師見習いとなった。
台風が噛み千切っていった白木蓮の葉を取り除き、ダリアが絡まっているのを戻す。丁寧に。彼女たちが萎れたり、雨に打たれているのを見るのはとても悲しいし、それでも何とか花を咲かせればとても可愛いと思う。こうして庭いじりに傾倒するあまり、最近では世話のためなら時として、主であり絶対服従の対象であるマスターさえも無視できるようになってしまった。道行く人はまさか私が歌を歌う機械だとは気付くまい。
「ルカ」
その時後ろから両手が伸びて私を抱きしめた。突然の出来事に驚きながらも声の調子がまだ拗ねていることに内心笑って、なんですか、と返す。やっぱりマスターは可愛いと思う。
首元で交差された両腕に、きゅっと力が込められた。自然と頭が下がる形になって、踝まで泥だらけのマスターの真っ白な両足が見える。
「僕はまだ怒っているんだよ」
「わかっています」
「わかってない」
「わかっています」
首だけ何とか曲げて、いつまで繰り返すんですか、とマスターの右腕に頬を付けたら、マスターの温もりが伝わってきた。わかってない、僕はルカが好きなんだよと続く言葉に、でもやっぱり笑えてしまう。
「ほら、やっぱりわかってないだろ。好きって言ってるんだよ僕は」
「わかっていますよ。マスターは私に怒っていて、私が好きなんですね」
「……なんか、伝わってない気がする」
好きなんだよ僕は、ルカ、好きだ、と告げながら力を込めて抱きしめる様に今度こそぷすっ、と息が漏れると、ほらやっぱり、と言いながらもマスターも声を上げて笑った。それをきっかけに、2人の笑い声が庭へ長らく響く。
けれども私は人間ではないので、マスターが私から離れ体を折って笑う様子を見ながら、思考プログラムを訂正していかねばならない。マスターは対物性愛を脱却するためにもそろそろ私から一定の距離を置いた方がいい。何がいけなかったか考え、一つずつ直す。
マスターを見ていると、沢山の困難を乗り越えた末に咲く花を思い出させて止まない。可愛いし、美しいと思う。本人が可愛い、と言われるのを好んでいないのは残念だが、私は私の思った通り、そしてマスターの対物性愛を助長させないように、可愛いと言い続けるつもりだ。今は本当に、危ない状態にあるのだ。
Marginal man。境界人。マスターはこの小さな庭の中で、マスターと私が何と何の境界に立っていると言いたかったのだろうか。
私は日本語と英語二つの音声データベースを持つボーカロイド03 、巡音ルカである。
「文化の違う2つ以上のグループにいて、でもどちらにも完全に所属できず、それぞれのグループの境界線にいる人のことだ」
ルカと僕のことだね! と大きな声で付け足して縁側からはみ出す足をぶらぶらとし、今年16の童顔を思いっきりきゅっとさせる。これはマスターが機嫌のいい時、或いはマスターのお母さんや誰かを機嫌よくさせたい時に作る表情で、きっと笑顔のつもりなのだろう。私もぎこちないながら笑みを返す。さっきからマスターが盛んに話しかけてくるので、集中できないまま時間が経ってしまった背後の庭に、今度こそ、と体を戻そうとして、しかしねえルカ! という言葉にまた阻まれた。なんです、と視線だけでマスターを捉えたら、マスターは頬を膨らまし、少しだけ拗ねている。
「ちゃんと話聞いてよ」
「聞いています。Marginal man。周辺人。境界人。ドイツの心理学者、Levinの言葉です」
「僕そんなこと言ってないし」
「言いましたよね? marginal manって」
「違う。ドイツの心理学者、とか言ってないし」
「それは補足です。会話の続きがしたいのでしょう? マスターと私が境界人で、それでどうしたのです?」
「呆れた! ルカは僕を馬鹿にしてるでしょ!」
「馬鹿になどしていません」
「Kidding!」
「だから違いますって、もう」
溜息と共に体ごと向き直すと、握っていたジョウロの水が、たぷりと揺れる。マスターが最近買ってくれた桃色のジョウロは、昨日の台風で泥が沢山ついてしまっていた。落としきれていなかった泥に気付いて払っていると、今度こそ無視された、と再び勘違いをしたマスターが英語混じりで何やらわめき出している。縁側に放り出された足をじたばたと、そんなところはまだ子どもらしくて可愛い。しかし一足しかないサンダルは私が履いてしまっているし、こちらへ来る様子もないので、今度こそ本当に無視して取りかかることにした。
私の今ある感情のほとんどは、目の前の花たちを世話していく過程で学習した。10メートル四方のこの家の大きな庭の端にある、畳二畳を縦に並べたような細長い花壇。初めてここへ来た日から、彼女たちの世話をするのは私の役目になっている。ここへ来た日、「ルカちゃんのために用意したのよ」と私の髪と同じ色のエプロンとスコップを渡して、マスターのお母さんは「庭はあっちだから」とそれは嬉しそうに言ったのが全ての始まりである。私のことを、どうやら庭いじりをするハウスロイドだと思っていたらしい。そんなんじゃないって! とあの日後ろから追いかけ訂正していたマスターが、私がせっせと庭いじりをする姿を見て後日不満だと言わんばかりの顔でこの桃色のジョウロをプレゼントしてくれた時、私は初めて声を出して笑ったものだ。こうして私は、マスターも公認の庭師見習いとなった。
台風が噛み千切っていった白木蓮の葉を取り除き、ダリアが絡まっているのを戻す。丁寧に。彼女たちが萎れたり、雨に打たれているのを見るのはとても悲しいし、それでも何とか花を咲かせればとても可愛いと思う。こうして庭いじりに傾倒するあまり、最近では世話のためなら時として、主であり絶対服従の対象であるマスターさえも無視できるようになってしまった。道行く人はまさか私が歌を歌う機械だとは気付くまい。
「ルカ」
その時後ろから両手が伸びて私を抱きしめた。突然の出来事に驚きながらも声の調子がまだ拗ねていることに内心笑って、なんですか、と返す。やっぱりマスターは可愛いと思う。
首元で交差された両腕に、きゅっと力が込められた。自然と頭が下がる形になって、踝まで泥だらけのマスターの真っ白な両足が見える。
「僕はまだ怒っているんだよ」
「わかっています」
「わかってない」
「わかっています」
首だけ何とか曲げて、いつまで繰り返すんですか、とマスターの右腕に頬を付けたら、マスターの温もりが伝わってきた。わかってない、僕はルカが好きなんだよと続く言葉に、でもやっぱり笑えてしまう。
「ほら、やっぱりわかってないだろ。好きって言ってるんだよ僕は」
「わかっていますよ。マスターは私に怒っていて、私が好きなんですね」
「……なんか、伝わってない気がする」
好きなんだよ僕は、ルカ、好きだ、と告げながら力を込めて抱きしめる様に今度こそぷすっ、と息が漏れると、ほらやっぱり、と言いながらもマスターも声を上げて笑った。それをきっかけに、2人の笑い声が庭へ長らく響く。
けれども私は人間ではないので、マスターが私から離れ体を折って笑う様子を見ながら、思考プログラムを訂正していかねばならない。マスターは対物性愛を脱却するためにもそろそろ私から一定の距離を置いた方がいい。何がいけなかったか考え、一つずつ直す。
マスターを見ていると、沢山の困難を乗り越えた末に咲く花を思い出させて止まない。可愛いし、美しいと思う。本人が可愛い、と言われるのを好んでいないのは残念だが、私は私の思った通り、そしてマスターの対物性愛を助長させないように、可愛いと言い続けるつもりだ。今は本当に、危ない状態にあるのだ。
Marginal man。境界人。マスターはこの小さな庭の中で、マスターと私が何と何の境界に立っていると言いたかったのだろうか。
私は日本語と英語二つの音声データベースを持つボーカロイド03 、巡音ルカである。
作品名:雨 The rain and my foolish pain 作家名:つえり