或るソネット
Alfred:雨色エデン
歪に口元を象って誘惑の悪魔は笑顔で俺を見た。
「なにしにきたの?」
なんと言葉を紡いだのだろう。そして俺はそれが拒絶されることを予測していたのだろうか。
「悪いけど坊ちゃんは具合が悪いから会えないよ」
ロンドンは酷い土砂降りで雨は体温を奪う。
「今はマシューがついていてくれてる。ようやく眠ったんだ」
頑なに俺の手を取ろうとしなかった兄弟のいつになく毅然としたラベンダーの瞳を思い出す。
憧憬、心酔、盲目、劣情。
「お前はもう他人なんだから要らないんだよ、アルフレッド」
蛇が嘲笑う。お前の仕出かした愚かな選択の結末を見ろと。
貴方を愛したことは罪ですか。
久し振りにもぎ取った纏まった休暇を俺は本宅で過ごすつもりだった。
我がこの国は広大で240年余の長い――しかし俺たちの世間では未だ一番若い新参の国だ――間、あちこちに家を買っては時勢に応じて移り住む生活をしていたのでもう使っていない邸宅が各所にある。最初のうちは住まないと家が傷むからと人間に貸したりもしていたが、その家は手に入れた時期の割にはよく訪れる機会があったのでそのまま残してあったのだ。
それで本宅に居る予定だったのに朝から鬱々とした雨空を見て天気予報を確認すると続く地雨にウンザリして、ふとこの家のことを思い出したのだ。
特に何処かに出かける予定もなく自堕落に家でゲームでもして過ごすつもりであったが雨はよろしくない。
雨は嫌いなんだ。
そういえばあの時もそう思ってこの晴れの町に家を買ったんだったなと思った。
休日で店が閉まるのを見越して本宅から運んだ食料と着替え、ゲームのセットなどなど思った以上に大掛かりになった荷物を車から降ろしながら俺は空を振り仰いだ。
高い空は澄み切ってカラリと晴れ渡り、眩しい光の中を飛行機が雲を率いて線を引く。
ゲームをして食べたいものを食べたいだけ食べてそれからそれでも暇を持て余したら久し振りにミラマーでも覗きに行こうか。演習はやってないかもしれないが、あそこならば大抵戦闘機を乗り回すことがレクリエーションだと信じているトップ・ガン上がりの若い奴らが恋人に寄り添うように愛機と過ごしているのだろう。
頭の中でツラツラと休暇の過ごし方を忙しなく考えながら自嘲に軽く頭を振った。
もっとゆっくりしたっていいじゃないか。
せっかちな自分の性格に溜息が出る。いつだって何かに急き立てられながら俺は何処に向かっていたのだろう。射す影に振り返ってもそこには自分の姿しかなかった黄昏のイメージを繰り返し思い出す。
そしてもう一度溜息を吐いて古い扉の鍵を開いた。
雨の音がする。
「アル」
その人の声は雨に似ていた。静かで優しく包むようでいて、触れた箇所は離れて時間を置いてしまうと冷たく凍えて俺の熱を奪う。
愛されている自信はあった。
それが初めて受ける愛情でも疑う余地なんてなかった。不器用ながらもその全てで俺を庇護し、その様は溺愛と呼ぶに相応しいと彼を知る誰もが驚いた。ぎこちなくても精一杯の笑顔は俺だけの為にあったし、彼が俺を受け入れてくれるのは当たり前のことだと思って育った。抱き締めてくれる小さな腕の中だけの幸せな楽園。
ずっとそのまま居られたら?
加減を知らない歪な執着は与えるばかりで俺のことをいつだって対象物として扱った。彼に必要なのはただ一方的に愛でる為の人形なのだと、発達していく自我に比例して冷たい雨は彼と俺の距離を遠ざけて行く。声は届かない。
硝子のエデンは叩き砕いた俺の手を傷つけて君の上にも欠片を降り注いで傷つけた。
西陽が当たる記憶の部屋には俺一人だけが取り残されて、果たして最初からここには君が一緒にいたのだろうかと変に温かいばかりの想い出を辿る。どれもこれも要らないものばかりだ。
憧憬、心酔、盲目、劣情。
優しい瞳をした悪魔が笑う。深い深い雨の青で。
こんなに愛していたのに。裏切られたと泣き崩れる君。
こんなに愛していたのに。生まれた気持ちを抱えて立ち尽くす俺。
「そんなところで寝てると風邪ひくよ」
醒め切らない頭を軽く振って窮屈なソファから身を起こすとサァァッという水音と続いて聴き慣れた穏やかな声が少し離れたキッチンから飛んできた。一続きのダイニングを兼ねたリビングは斜陽に照らされ闇に沈みゆく一歩手前だった。
キュッと蛇口を閉めてマシューが振り返る。手にした古いポットとカップ、棚から出した幾つかの大小の皿は使う可能性がありそうなものを改めて洗っていたのだろう。
「いつきたんだい?」
「ついさっきだよ。一度無駄足踏まされたからね」
「ああ……よくここだって解ったね」
そうだった。すっかり寝惚けた頭は本宅に居るつもりになっていて、当たり前のようになにやらまるで自分の家のように炊事に勤しんでいる兄弟の存在に驚きもしなかった。
古めかしいケトルをコンロに架けて彼はいつもの眉を下げた笑顔を見せる。
「君は突然居なくなる時はいつもここじゃないか」
だから僕もここの鍵は持っているし、と言うと最後の陽溜りで太陽の熱の名残を惜しんでいたいつものホッキョクグマがたしっと立ち上がり鈴のついたキーホルダーを掲げて見せた。
「オレ、開ケタ!」
「くま衛門さん、ちゃんと仕舞っておいてね」
「オレ、デキルシロクマ!!」
てってってっと部屋を出て行った尻尾を眺めながら大きく一つ伸びをした。
「せっかく、アーサーさんが遊びにおいでっていうから誘いにきてあげたのに日が暮れちゃったじゃないか」
「アーサーが?」
ローテーブルに置いた二つのカップはティーカップなのにコーヒーが入っていた。マシューは取立てて気にするでもなくメイプルを入れた。
「どうせ君もお休みだろうって」
「それまたなんか怪しい物食べさせられるんじゃないのかい?」
「…ないとは言い切れないけど、フランシスさんにスタッフィングについて意見を聞かれたから大丈夫じゃない?」
あちらはどっちの国も休みじゃないだろうにきっとまたアーサーが思いつきで我儘を言ったのだろう。お前たちの為だなんて顔をして俺は知ってるんだ。
汚い大人が余裕の笑みの下に上手に隠したつもりの醜い独占欲。
「明日行くからって連絡したからね」
長い睫毛を伏せて穏やかに言うけれど否とは言わせないきっぱりとした口調だった。のんびり屋で影が薄いことで定評のある兄弟は俺にだけは昔からこんな調子だ。
ノーを返させるつもりはない癖に暫く黙っていたらひょいと薄紅葵の眼光をこちらに向ける。転た寝の夢に見た強い光は暫く見ない。
「…あ、ああ。モンゴメリには今夜中に連絡しとくよ」
ほっとしたように微笑った顔が驚くほどにアーサーに似ていた。