二人の男とある沈みゆく彼女の話と猫一匹
『二人の男とある沈みゆく彼女の話と猫一匹』
「さあ小さなレディ、足を乗せて。ゆっくり座るんだ。そう、怖がらないで……ほら、彼女を膝に乗せてもらえるかな? 安心して、ミス・ラベンダーは賢い猫だから。さあ衝撃に備えて。大丈夫、神様が君を守ってくれるよ。上を見て。星が綺麗だろ?」
チュ、と白く小さな手に唇で触れ、サンジはにっこりと笑った。怯えた少女の顔が、ゆっくり下へ下へと遠ざかっていく。紅茶色の髪の色がしばらく目に残った。航行を続けていた間は気付かなかったが、こうして見下ろしてみると水面までひどく遠い。遙か下で不気味に脈打つ黒い海は、身を凍えさせる冷気となんとも言いがたい不気味さをもって、巨大な船をいま、死へと誘う。
1
レディ・スカーレット号が港を出たのは本日午前9時ごろのことであった。
総量はおよそ47万トン級、甲板の延長5マイル。計5つのボイラー室を持ち、ホールや一等客室、バー、図書館、遊技場などのデザインは高級ホテルと同じ設計士が手がけた。何より、その建造費ときたらちょっとした国家予算級の単位ではないかと予想されている。
その壮麗なる船の処女航海である。その完成を今か今かと待ち望まれていた、夢の船の。
新聞はこの日の出航を一週間も前から特集していたし、港のある街の人々もスカーレット号の噂を口にしない日は無かった。カラー刷りの鮮やかなチラシが街に飛び交い、その日の食料にも困る路地裏の子供たちですら、その紙切れをじっと眺めたものである。そして、運良く手に入った切符は名誉以外のなにものでもなかった。レディ・スカーレット号! 世界一の船!
港は、幸運な乗客とその見送り客のほかにも記者や野次馬、物売りなど、あらゆる人々でごった返していた。華やかに着飾った一等客室の乗客たちが誇らしげに手を振っている。ボイラーの音がうるさい三等客室で波に揺られる覚悟を決め、新天地を求める人々の目は希望に輝いている。処女航海のために急きょ雇われた火夫たちは、筋骨隆々とした腕に毛羽だらけの鞄を抱えて船に勇ましく乗り込んでいく。食料を運びこむ働き蟻のような行列の間を縫うように回っているのはコックだろうか、スーツ姿でまるで春の蝶のように忙しない。
スカーレット号の門出を、誰もが祝っていた。
そういえば、その後スカーレット号が辿ったあまりにドラマチックな運命にしてみれば実に些少なことではあるのだが、出航に先立ちひとつ小さな事件が起こった。
船が汽笛を鳴らし、いよいよさあ出航、ボンボヤージ……というときである。港の人ごみをかき分け、駆けてくる人影が2つあった。ひとりは、三揃えのぼやけたスーツにハンチング帽と、いかにも下町の小僧といった感じの少年。もうひとり、こちらはいかにも火夫である。粗末なシャツの下では隆々たる筋肉が湧いており、浅黒い皮膚は熱気に焼けている。精悍ではあるがどこか野生めいた顔立ちもなんとなくそれらしい。
とは言え、既に汽笛は鳴っているし、乗り込み用のタラップだってとっくに外されてしまっていた。
「ホラ! こっちだってば……なんで船が見えてるのに間違えるんだよ! 早く、もう汽笛が鳴ってる、ロープも離されちゃうよ――」
先に立って走る少年は、いちいち後ろを振り返っては声を上げ、後ろを付いてくる男に手招きをしていた。どうも、そうしなければ男がすぐに見当違いな方向に向かってしまうらしいのだ。いかにこの港が人まみれ物まみれであると言っても、目的地がどんと眼前に控えているのにどうして方向を間違えるのか。いい加減我慢の限界を超えた少年はとうとう男の手を引き、まるで砕氷船のごとく人ごみを切り裂きながらカラーリボンを蹴り上げ、汽笛を鳴らし続ける船へと突進した。
「おうい! 待って! 待ってくれよ! この人、船で働くことになってたんだ! 俺のせいで遅れちまったんだよ、どうかこの人を乗せてやってくれ!」
このとき少年が船べりの船員たちに向かって懸命にハンチング帽を振り回すのを、食料の積み込みをひと段落したサンジは、タバコをふかしながら甲板の隅から見下ろしていた。おそらくは船と無関係であろう少年が必死になっている後ろで、職を失う寸前の男が泰然としているのが妙だ。あいつはいつもそうだ、とサンジは眉間に皺を寄せた。そういうところが大嫌いなのだ。
「まったく、腹の立つやつですよ、ミス・ラベンダー」
ねえ、とサンジはくわえタバコにして、足元で伸びをしていた白猫を抱き上げた。昔気質の船長がネズミを捕らえるためと言って船に連れ込んだらしいのだ。もっとも、綺麗に洗われ溶かされた体毛や金色の目、首に巻かれた華奢な首輪など見る限り、あまりネズミを追いかけそうな猫には見えないけれど……。
ラベンダー嬢を抱え、サンジは手摺に身体を預けながら騒動の中心である2人組を見下ろした
「お願いしますってば! ロロノアさん、あんたも頼んでくださいよ!」
「あ? ああ」
「なんで俺のほうが一生懸命なんですか!」
既に、もやい綱は船尾から一本ずつではあるが取り外されはじめている。それでも諦め悪くギャンギャン怒鳴る少年に、港の見送りたちだけでなく、甲板の船員たちも笑い声を上げた。
海の男が皆、海風のように気持ちの良い性格をしているというのは、無論フィクションの中の話だ。逆に偏見である。実際には、女々しい気質の奴らだっている。そして悪いことに、甲板にいるのはどうもそういう奴らばかりだったらしい。
「なあお前さん! 船は止められねえ、予定もずらせねえ! でも、乗り込めるなら、そのまんま連れていってやってもいいぜ! どうだ? そこから昇ってきなよ! できるもんならな! さあ!」
もちろん、そんなことができるはずがないのだ。そこらに停まっている漁船ではない。これは、世界でも一、二を争う豪華客船レディ・スカーレット号なのだから。
ちくしょう! と、少年が地面に帽子を叩きつけ、空を仰ぎ神を呪う言葉を吐くのをサンジは無表情に眺めていた。あの船員たちは胸糞が悪いが、しかし、言っていることは然程間違ってはいない。たったひとりの、しかも遅刻してきた火夫のために、1500人の人間が乗り込んだ船を止めるわけにも行くまい。
さて、腐れ縁もここまでか……とそう思っているうちにも、ロープは取り外されていく。甲板の船員たちの笑い声も、ますますやかましくなっていく。
そのときだ。
それまで何をするでもなく様子見でもするかのように船を見上げていた男がひとつフワァと欠伸をして、ちら、と甲板を見上げた。何も知らぬ者には、ただスカーレット号の壮大なる姿を見上げただけに思えたことだろう。しかしサンジとミス・ラベンダーだけは、彼がどこを見たのかを知る。
すると、男はスタコラと走り出した。どうやら向かうのは、船首近くの舳綱である。いったい何を、とサンジが眉をひそめる間もなく、男はぴんと張ったロープに掴みかかった。そして――なんと、それを駆けあがったのだ。まるで、サーカスの曲芸のごとく!
「さあ小さなレディ、足を乗せて。ゆっくり座るんだ。そう、怖がらないで……ほら、彼女を膝に乗せてもらえるかな? 安心して、ミス・ラベンダーは賢い猫だから。さあ衝撃に備えて。大丈夫、神様が君を守ってくれるよ。上を見て。星が綺麗だろ?」
チュ、と白く小さな手に唇で触れ、サンジはにっこりと笑った。怯えた少女の顔が、ゆっくり下へ下へと遠ざかっていく。紅茶色の髪の色がしばらく目に残った。航行を続けていた間は気付かなかったが、こうして見下ろしてみると水面までひどく遠い。遙か下で不気味に脈打つ黒い海は、身を凍えさせる冷気となんとも言いがたい不気味さをもって、巨大な船をいま、死へと誘う。
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レディ・スカーレット号が港を出たのは本日午前9時ごろのことであった。
総量はおよそ47万トン級、甲板の延長5マイル。計5つのボイラー室を持ち、ホールや一等客室、バー、図書館、遊技場などのデザインは高級ホテルと同じ設計士が手がけた。何より、その建造費ときたらちょっとした国家予算級の単位ではないかと予想されている。
その壮麗なる船の処女航海である。その完成を今か今かと待ち望まれていた、夢の船の。
新聞はこの日の出航を一週間も前から特集していたし、港のある街の人々もスカーレット号の噂を口にしない日は無かった。カラー刷りの鮮やかなチラシが街に飛び交い、その日の食料にも困る路地裏の子供たちですら、その紙切れをじっと眺めたものである。そして、運良く手に入った切符は名誉以外のなにものでもなかった。レディ・スカーレット号! 世界一の船!
港は、幸運な乗客とその見送り客のほかにも記者や野次馬、物売りなど、あらゆる人々でごった返していた。華やかに着飾った一等客室の乗客たちが誇らしげに手を振っている。ボイラーの音がうるさい三等客室で波に揺られる覚悟を決め、新天地を求める人々の目は希望に輝いている。処女航海のために急きょ雇われた火夫たちは、筋骨隆々とした腕に毛羽だらけの鞄を抱えて船に勇ましく乗り込んでいく。食料を運びこむ働き蟻のような行列の間を縫うように回っているのはコックだろうか、スーツ姿でまるで春の蝶のように忙しない。
スカーレット号の門出を、誰もが祝っていた。
そういえば、その後スカーレット号が辿ったあまりにドラマチックな運命にしてみれば実に些少なことではあるのだが、出航に先立ちひとつ小さな事件が起こった。
船が汽笛を鳴らし、いよいよさあ出航、ボンボヤージ……というときである。港の人ごみをかき分け、駆けてくる人影が2つあった。ひとりは、三揃えのぼやけたスーツにハンチング帽と、いかにも下町の小僧といった感じの少年。もうひとり、こちらはいかにも火夫である。粗末なシャツの下では隆々たる筋肉が湧いており、浅黒い皮膚は熱気に焼けている。精悍ではあるがどこか野生めいた顔立ちもなんとなくそれらしい。
とは言え、既に汽笛は鳴っているし、乗り込み用のタラップだってとっくに外されてしまっていた。
「ホラ! こっちだってば……なんで船が見えてるのに間違えるんだよ! 早く、もう汽笛が鳴ってる、ロープも離されちゃうよ――」
先に立って走る少年は、いちいち後ろを振り返っては声を上げ、後ろを付いてくる男に手招きをしていた。どうも、そうしなければ男がすぐに見当違いな方向に向かってしまうらしいのだ。いかにこの港が人まみれ物まみれであると言っても、目的地がどんと眼前に控えているのにどうして方向を間違えるのか。いい加減我慢の限界を超えた少年はとうとう男の手を引き、まるで砕氷船のごとく人ごみを切り裂きながらカラーリボンを蹴り上げ、汽笛を鳴らし続ける船へと突進した。
「おうい! 待って! 待ってくれよ! この人、船で働くことになってたんだ! 俺のせいで遅れちまったんだよ、どうかこの人を乗せてやってくれ!」
このとき少年が船べりの船員たちに向かって懸命にハンチング帽を振り回すのを、食料の積み込みをひと段落したサンジは、タバコをふかしながら甲板の隅から見下ろしていた。おそらくは船と無関係であろう少年が必死になっている後ろで、職を失う寸前の男が泰然としているのが妙だ。あいつはいつもそうだ、とサンジは眉間に皺を寄せた。そういうところが大嫌いなのだ。
「まったく、腹の立つやつですよ、ミス・ラベンダー」
ねえ、とサンジはくわえタバコにして、足元で伸びをしていた白猫を抱き上げた。昔気質の船長がネズミを捕らえるためと言って船に連れ込んだらしいのだ。もっとも、綺麗に洗われ溶かされた体毛や金色の目、首に巻かれた華奢な首輪など見る限り、あまりネズミを追いかけそうな猫には見えないけれど……。
ラベンダー嬢を抱え、サンジは手摺に身体を預けながら騒動の中心である2人組を見下ろした
「お願いしますってば! ロロノアさん、あんたも頼んでくださいよ!」
「あ? ああ」
「なんで俺のほうが一生懸命なんですか!」
既に、もやい綱は船尾から一本ずつではあるが取り外されはじめている。それでも諦め悪くギャンギャン怒鳴る少年に、港の見送りたちだけでなく、甲板の船員たちも笑い声を上げた。
海の男が皆、海風のように気持ちの良い性格をしているというのは、無論フィクションの中の話だ。逆に偏見である。実際には、女々しい気質の奴らだっている。そして悪いことに、甲板にいるのはどうもそういう奴らばかりだったらしい。
「なあお前さん! 船は止められねえ、予定もずらせねえ! でも、乗り込めるなら、そのまんま連れていってやってもいいぜ! どうだ? そこから昇ってきなよ! できるもんならな! さあ!」
もちろん、そんなことができるはずがないのだ。そこらに停まっている漁船ではない。これは、世界でも一、二を争う豪華客船レディ・スカーレット号なのだから。
ちくしょう! と、少年が地面に帽子を叩きつけ、空を仰ぎ神を呪う言葉を吐くのをサンジは無表情に眺めていた。あの船員たちは胸糞が悪いが、しかし、言っていることは然程間違ってはいない。たったひとりの、しかも遅刻してきた火夫のために、1500人の人間が乗り込んだ船を止めるわけにも行くまい。
さて、腐れ縁もここまでか……とそう思っているうちにも、ロープは取り外されていく。甲板の船員たちの笑い声も、ますますやかましくなっていく。
そのときだ。
それまで何をするでもなく様子見でもするかのように船を見上げていた男がひとつフワァと欠伸をして、ちら、と甲板を見上げた。何も知らぬ者には、ただスカーレット号の壮大なる姿を見上げただけに思えたことだろう。しかしサンジとミス・ラベンダーだけは、彼がどこを見たのかを知る。
すると、男はスタコラと走り出した。どうやら向かうのは、船首近くの舳綱である。いったい何を、とサンジが眉をひそめる間もなく、男はぴんと張ったロープに掴みかかった。そして――なんと、それを駆けあがったのだ。まるで、サーカスの曲芸のごとく!
作品名:二人の男とある沈みゆく彼女の話と猫一匹 作家名:ちよ子