二人の男とある沈みゆく彼女の話と猫一匹
これにはさすがに船員の連中も慌て、やめろとか、何してるんだとか、わあわあと騒ぎ始めた。岸の群集たちもざわついている。少年は暫し呆然としていたが、やがて気付くと、やはり男を止めるべく声を張り上げ始めた。けれど男はロープを昇っていく。伝っていくとか、しがみついていくとか、そんなちゃちなものではなかった。まさに、昇っていたのである。
人々が驚き目を見張る間に男はスイスイとロープを駆け昇る。頑強という言葉まさに、という様子ではあるが、身軽には見えない男である。それが空中を散歩する様は、やがて次第に歓声を呼び始めた。がんばれ! とか、いいぞ! とか、紳士淑女たちも下品に声を掛けて、本当にこれではサーカスだ。さすがに、賭けの呼び込みをはじめたやつはボコボコにされていたが。
とうとう、男は綱を渡りきってしまった。ヒョイ、と甲板に乗り移れば最初にはやし立てた連中は唖然とそれを眺めている。サンジだって同じだった。口をぽかぁんと開けて、思わずミス・ラベンダーを取り落としてしまったくらいだ。
「よう」
「……」
歓声を背に受け未だ泰然と佇む男をきっと睨みつけ、サンジはタバコを投げ捨てた。
「さっさとボイラーに行けよ!」
この2人の男の関係について、正確に知る人間はおそらくこの世に無い。ただ、ミス・ラベンダーによる、猫の鋭敏な感覚をもってすれば、それが「ただならぬもの」であろうことはあるいは察せられただろう。彼女が火夫を威嚇したのは、もしかするともやい綱を伝ってやってくる侵入者は排除すべしという船乗り猫の本能からのものではなく、2人のある種呪われたと言っても良い、因縁めいた関係を知ったためなのかもしれない。
ただそれではあまりにも抽象に過ぎるから、いくつかこの2人についての事件を述べるとするならば――例えば、彼らの出会いは刑務所である。また、次に再会したのは汚水の水溜りと浮浪者に溢れた路地裏だった。しかし、一方で彼らはきちんと宿賃を払った上で、ヒルトンホテルのスウィートルームのベッドの上で抱き合ったこともある。
つまりとりとめもない。そんな彼らが再び出会ったのが、このレディ・スカーレット号というのも――後々の事件から考えれば、実にまた、呪われた運命だったに違いない。
2
音楽隊の演奏は、クラシックからポップスへと切り替わっていた。彼らは歌っている。彼らは微笑している。しかしサンジはそれに狂気を見た。ぞっとした。もはや、船の傾きは誰にでも感じられるものとなっている。突然ではあるが、スカーレット号は間もなく沈む。
まったく、嘘のような話だ。あのスカーレット号が! けれど、足元は確かに傾いている。どこかでドォン、と爆発の音がする。ボイラーだろうか。サンジの足元にはひとり、イタリア人の男の死体が転がっている。子供とご婦人を押しのけ無理矢理にボートに乗り込もうとしたから撃ち殺されたのだ。緊急時、船員はそういう輩は撃ち殺して構わないと決まっている。
けれどその船員たちだって充分にパニックに陥っていた。なにしろ、ボートの数がどうあっても絶望的に足りないことを誰よりも知っているのは彼らである。すすり泣きも、怒号も、悲鳴も、すべて入り混じって何か新しい地獄の喧騒のような、そんなものを作り出していた。ここはおそろしいところだ。沈没や、それに伴う死、それらを抜きにしてもおそろしいところである。踏み潰されたらしき嬰児の死体を甲板の隅に見つけ、サンジはいよいよ目を閉じた。なんということだ。
彼はゆっくりと、人気の無くなった廊下を進んだ。そのまま船の中央部まで進んでいく。当たり前だが、あのスカーレット号の船内であるというのに、廊下にはまったく人影は無い。どこかの部屋からすすり泣く声が聞こえてくる。
ト、ト、と床板を自分の靴が叩く音だけが嘘のように軽やかで、サンジはしばらくこの音を聞いていたいと思った。
ギイィ、と、船全体を揺らす不気味な音が響いたのは、夜の10時ごろのことだった。今となってはまるで遠い過去の話だ。廊下を叩く靴音を聞きながら、サンジはゆっくりとその思い出を脳裏に浮かべた。
各々、ポーカー、食事、ダンス、おしゃべり、その他諸々を終えて就寝に備えようかというころである。その音は、一瞬人々の動きを止めた。氷山にぶつかったのだろうということは、船員を除いても案外多くの人が承知できたことだった。何しろ、今日は昼ごろからずっと凍えるような寒さだったのだ。これは周りに氷山があるということだと、ちょっと航海の経験があるものなら勘付くところだ。
しかし、その一撃が船にとっての致命傷であろうとわかり、顔を蒼くした者は――そう多くは無かった。乗客も、乗組員も、スカーレット号――世界一の船をすっかり過信していたのだ。この船は沈まないと、誰が保証したわけでもないのだがそう信じ込んでいた。
しかし氷山の切っ先がスカーレット号の船底を切り裂いたのは紛れも無い事実で、間もなく船体には海水が漏れ入ってきた。これを報告しに行ったのが暢気な男だったからはじめ船長は葉巻を吹かしながら報告を聞いていたのだが、これを聞いて途端に蒼白になった。明らかに、スカーレット号は沈む運命であると悟ったためである。そして、緊急用ボートの数を思い出して呆然とした。どうやって無理矢理に詰めても、絶対にあぶれる者が出る。しかも相当の数で。彼はただちにSOS信号を送るよう無線技師に伝えたが、近海を進む船が無いこともわかっていた。緊急帯を付けるよう乗客たちに勧告する声は、不思議なくらいに静かだった。
さて、はじめは落ち着いて冗談なども言っていた客たちだったが、その分、船が傾き始めしかもどうやら脱出用ボートが充分でないと知ったときの彼らの衝撃はすさまじいものであった――というのは、先ほどの通りである。一等客室の貴婦人も、三等客室の移民たちも、等しく狂乱した。もはや騎士道などあって無いようなもので、常に微笑をたたえるべしと言われた乗組員たちは、思うように救難ボートを下ろせないことに狼狽し、焦っていた。死にそうな顔をしていたし、ほとんど死ぬことも確実だったのだから、その気持ちはわからなくもないが。
ここに来ては客室の違いも、一等航海士と火夫との違いも、それどころか客と乗組員との違いすら無いに等しく、これは新たなる革命の形であるかもしれないとあるいはクロムウェルあたりが存命ならば思ったのかもしれないが、それはここに真の平等があるためではなく、これが彼の為した虐殺の阿鼻叫喚に似るためである。
しかし今、サンジが進む廊下において、その地獄でさえも遠い世界の話だった。あれは要するに生きたいと願うから切実で地獄なのであって、それを離れ、一歩冥界に足を踏み入れてしまえば、そこはただの彼岸である。静寂がある。靴音もよく響こうというものだ。
サンジは、バー・ラウンジの扉の前で立ち止まった。他のものと同じく一枚のマホガニー材で造られ、見るからにどっしりと重たい。扉に掛かる金の札は当たり前のように輝いているが、これが曇る間も無くこの船は沈むのだ。
作品名:二人の男とある沈みゆく彼女の話と猫一匹 作家名:ちよ子